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えも

理性、論理的な言動がエモやエモ的な言動より「よい」いうことは言えない。

おそらく教育とか社会の洗脳の結果ではあるのだけど、エモい状態になって自分のエモい気持ちを絶対に譲る気はないのに、言語インターフェイスとしては論理的にやる人が多い。私もやる。

いったんエモい状態になってエモ度が高まると、言葉ではどんなに論理的であっても自分の気持を変えることはなかなか難しいので、そのエモい気持ちを素直に言語化して感情として伝えたほうが効率的なコミュニケーションになるのではないかと思っている。*1

また、我々は勝手に論理がエモに優越すると勘違いしているが、1対1のコミュニケーションで相手も論理を重視する宗教であればそうかもしれない。しかし、多人数の目がある場だとコミュニケーションによる説得の裁定者は会話をしている二者ではなくまわりの聴衆であることが多い。つまり、論理がエモに優越するかどうかは背景にいる聴衆の属性によるとしかいえない。事実として、人間はエモ説得に弱く、public度合いが高いテレビなどではエモ言説がかなり多くみられる。

なので、論理とエモのどちらが優れているかという価値判断は意味がなく、会話をしている場の特性によってどちらがより効率的に人間を説得できるかが決まるまでしか言えない。

じゃあどうすればいいのかという話に入ると、自分がエモってる時はそれを自覚した時点で、できれば自分のエモい状態を伝え、できなければ一旦引くとよさそうだ。逆に相手がエモい状態になってきたら、一旦相手のエモい気持ちを汲み取ってとりあえず肯定してやるのがよい。あるいは、自分が悪いことがわかっていたらさっさと謝罪したほうがいい。

とはいうものの、実は文章を介したコミュニケーションでは自分の出力した言語をセルフレビューで直していくことができるので、エモよりは純粋に論理ベースな会話をしやすい特徴はある。しかし、これもセルフレビューをする訓練を積んだ人ができるという話であって、おそらくほとんどの人はできない。また、文章を書き始める取っ掛かりの気持ちが強いエモだった場合はもうどうしようもない。

 

という、以上のこの文章も論理嗜好宗派で書かれている。ここで私がこの文章を書くに至ったエモを素直に書いておきたかったのだが、書いているうちに気持ちを忘れてしまったのが正直なところだ。「プライド高いやつらめんどくさい(自分を含む)」くらいだったかもしれない。皆さん負けるのがいやなのでプライド高いのは生物的なレベルでしょうがない*2とは思うのだけど、自覚しておくと得をするシーンも多いのではないかという話になる。

*1:なぜなら、コミュニケーションの目的が説得や意思決定である場合は、誰かが意思を絶対に曲げない状態だと会話をしても無駄だから

*2:合理的な判断しかしない人間を経済人と呼ぶが、そんなもんは存在しないという立場がさいきん流行っている行動経済学