であること、できること、すること

であること、できること、すること

2019/07/31

 「であること」は、過去のその人の特徴を他者から判断したものになる。例えば日本人である、医者である、社長の息子である、東大生である。これらの特徴は生まれもった環境的特性や、本人の行動によって獲得された社会的地位などの特性がある。

 「できること」は、その人が今できることである。能力に近い特性。東大生であっても高校化学の内容を全く忘れていれば、東大生ではあるが、高校化学ができないことになる。「であること」を達成するのに必要な能力と、今できることは必ずしも一致しない。「できること」は、箸を持てる、浴衣を自分で着ることができる、微分方程式が解ける、というように「であること」と同様の様々な尺度が考えられる。

 「すること」は、将来の自分に対して行動を起こすことである。漫画を読めば同じ漫画を読んだ人と会話ができる。英単語を日々覚えていくと、英語を素早く原語のまま読むことができるようになる。

 これらを総合すると、「すること」が起点となって「できること」が増えて、それを他者に認められることで、「であること」が達成される構造が見える。「すること」と「できること」は、おおよそ個人の行動の範囲内で完結する。また、これらを厳密に区別することにはそれほど意味がない。そして、「であること」はただの結果である。まったくの他人に自分の業績を知らしめて第一印象を良くすることには役立つが、「であること」にしがみついて、しかし、今は何もできない人はたいてい信頼されない。それゆえ、結果の「であること」だけに拘泥するのは意味がない。

 そして、この構造は自信、自己肯定感の問題にもつながる。また、自由の問題にもつながる。「であること」が本質的には無意味であること、これを「であること」にこだわるひとはうっすらと理解している。理解しているが、認めてはいない。それゆえ、不安である。自信につながるのは「できること」である。そして、「できること」は直接的に積極的な意味での自由につながる。「すること」は、将来の自信と自由を培う基盤となる。

 ここで抗しがたい、「できること」を制約する基盤がある。自らの肉体である。老いは「できること」を否応なく減らしてゆく。病気も同様である。あるいは、先天的、後天的な不利益が肉体に降りかかっていることもある。残念なことに、これは生物としての特徴なので覆すことはできない。であるならば、身体に制約されない、できることを増やすのが将来的な自由の最大化につながるのだろうか。知識を使えること、考えられること、これらは肉体の衰えよりは長く保持できる能力であろう。知ることは重要な自由の基盤といえる。

 知ることをしなければ、知らないことを知ることができない。無知の知はそれ自体として重要な性質であるが、自分の無知の具合を知るために知識(経験も含む)が必要になる。知識を得ること、経験をすること、どちらも「すること」である。

 「すること」は何に対してでも可能なのだろうか? しばしば起こる悲劇は、自分の欲求を無視して、他者からの評価、「であること」を想定して、「できること」、「すること」を逆算する事例である。プログラミングに興味がないのにソフトウェアエンジニア「であること」を求める人、患者を癒やすことに興味がないのに医者「であること」を求める人、いくらでも事例はある。もちろん、知識を増やすことは無知を知ることにつながる。なので、興味がおこらない領域の知識を得ることは将来的な糧となる。だが、「すること」はある日少しだけやったら良いものではない。「できること」に繋げるには、「すること」を繰り返し何度も、大量にやっていく必要がある。毎日興味のないことをやるよりは、少しでも興味のある、本当に興味のあることをするのがよいだろう。たいてい、興味のないことをし続けるのは無理だと思われる。

 残念ながら、資本に恵まれない我々は労働をし続ける必要がある。対価の額はおおよそ椅子の種類で決まっている。ここに、興味がなくても「できること」を増やさざるをえない構造がある。我々にとって最適な行動は、「できること」を金銭に変換する効率を上げること、そして労働ではない時間を最大化して、他の「できること」を増やす方針だろうか。興味のある「できること」「すること」が対価を稼げる業と一致している人は幸運である。しかし、実は「できること」が何であるか、興味の対象であるか、は問題ではない可能性もある。「できること」は自信と自由につながるため、自信の基盤を得たあとでは「できること」が何でも良かったと思うのかもしれない。