non117's diary

料理と哲学をします

つるんでもひとり

インターネットの人たち、いや世の中の人たち一般はいつも敵味方をよく識別しているな、と思った。また、日常的なコミュニケーションでも特に障壁がなければ仲間を増やそうとしてくる。例えば漫画を勧めて読ませるとか。何を観ても「共感」で判断するとか。

私はどこかの段階で仲間意識をなくしてしまった。これはそのうちブログに書くであろう、私がAphantasia(イメージ盲)だった話にも繋がる。ちょっと認知の形式が違うので波長が合わないのだ。まあ仕方がない。私にはこの認知形式しかないので。ともあれ、仲間仲間、敵だ敵だとやっている社会からちょっとだけ身を引いている気持ちがある。ちなみに妻氏も似たような考えである。いや、むしろ私よりも過激かも。われわれは仲間が云々という考えで行動していないのだ*1

まあ私の話はどうでもいい。それよりも仲間意識で説明できる社会現象が多そうだからこちらを考えていきたい。たぶん理論社会学的な話。バウマンのコミュニティとリキッド・モダニティにも影響を受けている。

なぜ敵味方を識別するのか。敵とか味方を相手にしたとき、情動的な反応が出てくる。情動は脳の古いシステムである。なので敵味方識別は生物の古いファームウェアに実装されたシステムだと考えてよいだろう。そりゃあそうである。敵を高速に識別して逃げたり噛みついたりしないと食べられてしまうのだ。最初は影が見えたら逃げるくらいの解像度だったものが、感覚器官と脳の発達によって高度になっただろう。敵、味方、中立くらいのカテゴリをさまざまな存在に対して判断できるようになる。また、甘いものや交尾の相手など、快楽をもたらす対象も認識するようになる。こうして進化した先に、仲間意識が出てきたのだろう。多くの高等動物は敵味方を識別できる。社会的動物はもちろんのこと、草食動物だって群れを作る。自分と似ているものは敵ではない、とするのだろうか*2

さて、この仲間意識はどのくらい近代社会に浸透しているのだろうか。昨今インターネットでよくみるのは、SNSバトル、超高速な流行り物消費とか。SNSでの闘争に敵味方識別が活きているのは自明だろう。また、流行り物に振り回されるのも仲間についていこうとするからであろう。さらに世間の常識も仲間意識が基盤になっているだろう。古い価値観だが、「就職、結婚、子ども、マイホーム」という規範も多数派がそうするから真似すべきものになっていた。古い社会から新しい社会まで、そして新しい文化にも仲間意識は見つけられる。

「常識」や「みんな」は古い仲間意識ではあるが、仲間意識が支配していることは今でも変わらない。たしかに五十年前の仲間意識は地縁的で歩いて回れる範囲のものだったと思う。しかし、都市化が進み情報の流通が進んだここ三十年において、仲間意識そのものが廃れたことはない。都市的な、土地に縛られない多様な人間関係においても仲間意識は活きている。地縁的なコミュニティから、新しい都市的なコミュニティへと移行しただけである。

われわれの世代で重要だった「アイデンティティ」も地縁的コミュニティから都市的コミュニティへの移行にみえる。都市的な「仲間」は流動的で不安定である。物理的な結びつきが弱いので簡単に縁を切ることができる。この不安定さゆえに、「〜である」ことを求める=アイデンティティの希求が進んだのだと思う。アイデンティティを求める心理は今も変わっていない。SNSのプロフィールに「〜である」かを書く人は多い。インターネット時代においても「〜である」人が集まって群れをなすのだ。

私はであること、すること、できることという記事で、「〜であること」より「〜すること」で「〜できること」を増やすのが大事だと主張した。この考えは今も変わっていない。ブログのサブタイトルに「料理と哲学をする」と書いてあるのはそういう意味がある。「〜であること」は仲間とつるむため、あるいは威張るためのラベルしかない。ラベルは過去の業績であり、過去のラベルにこだわると不自由になると思う。

「~であること」で群れるコミュニティを作ってしまう傾向はこのまま続くだろう。無意識に仲間やコミュニティを求める限り、自らの本源的孤独性を認識しない限りは仲間作りのためのラベリングは手放せないだろう。

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*1:こう言うと、「じゃあお前は敵なのか!」と誤認する人は多いのだが、敵でも味方でもない。たいていは相手を人間として尊重するだけ。普通は「仲間だから尊重する」という原理で動くだろうが、われわれは相手をラベリングする気がない。

*2:似ている人は味方、似ていない人は敵とするのが差別の構造

「善き生」の問題

最近デカルトを読んでいて哲学には「いかにして真理に至るか」という問題と、「いかにして良き人生を送るか」という問題があることに気がついた。哲学にはギリシア時代からそういう問題意識があったようにみえる。

さて現代の人たちはこの問題にどう答えているのだろうか。真理の認識について今では科学哲学という形で議論が続いている。ある程度の結論は出ており、人間がどれくらい間違えやすいかとか統計学が強いとかそういう話が出てきている。一方でいかにして良く生きるかという問題は未解決にみえる。

一見するとお金持ちになって労働から解放され、好きなものを買えるようになると人生が良くなるようにみえる。実際にそう思っている人も多いだろう。これは極論すると消費社会において金持ちになったら人生がよくなるという解決策だ。

しかしこれも嘘であることがわかる。Twitterは便利なもので、社会的に成功したとされる人の言動もつぶさに観察できる。彼らは幸せそうだろうか。そんなことはない。いつもイライラしていて他人と闘争してばかりである*1。これは昔から知られていることで、物理的な充足は「善き生」の半面ではあるのだが、しかし半面でしかない。

「善き生」の残りの半面は主観の問題である。どんな出来事も最終的には主観によって認識される。おのおのの精神のあり方が人生の質を決めている。客観性は他人の認識を集めて均したものなので、この私の、あるいはあなたの満足に繋がるとは限らない。つまるところ、自分がどう受けとめるか?より大事なものはない。

主観の大事さは人間の本質的孤独さに繋がっている。どんなに物に囲まれていても、どんなに家族がたくさんいても、人間はひとりで死ぬのだ。この身も蓋もない事実を受けとめてようやく問題の出発点に立てる。

だが人間がみな孤独で自分の主観が大事ならば利己的に振る舞うのが最適解にならないだろうか?もちろんその解もありうる。利己的なふるまいを人々が選んだ結果として他者を金で使う消費社会があるとも言える。だが、そんなことをしてしまうと本当に孤独なまま生きることになるのだ。

どういうことか?私もまだうまく説明できないのだが、人生の孤独さを軽減するには他者を人間として認める態度が必要なのだ。つまり「人間は孤独で主観が大事だ」という原則を他者一般に適用するのだ。コンビニ店員も配達をしてくれる人たちもみな人間として認める。道具ではない。この態度こそが孤独さを和らげる(唯一の)処方箋なのだ。今のところ私はそう確信している*2

*1:HIKAKINは希有な例外だと思う

*2:この態度をもってしても理不尽な他者問題は発生するのでこれについてはそのうち論じる

いみじくも勝手に行動する

さいきんになって「業務である程度勝手に行動してしまう」ことができるようになった。これまではわりと受動的だったのだが、自分でできる範囲ならば勝手に考えてドキュメントを書いたり喋ったりしてよいのに気づいたのだ。例えば、実装担当者としてチームにいるのに、複雑で混乱した仕様を整理してみるとか。勝手に、といっても時間をかけすぎてはダメだし、規律や倫理は守る。大事なのは、問題を勝手に拾ってくることだ。自分の縄張りがどこまでであるかとか忘れて、気になったら何でも言ってみるのである。

この開き直りができるようになってから数日、同じことを数年前の自分が言っていたことに気づいた。7年前、とある就活の最終面接で役員に「リーダーとはどういう人なのか」と聞かれた。そこで私は「勝手に行動する人です」と答えた。すると、その役員は大変感心して「いみじくも君の言うとおりだ」と返してくれたのを覚えている*1。「いみじくも」なんて古風な言い回しだなあと思った。

なんでそんな返しをできたのかはわからない。おそらく課題意識はあったのだろう。無意識のレベルでは認識していて言葉にもなっていたのに、実際に行動するのに7年かかったということだ。われながら感心すると同時に性格を変えるのは難しいなと思った。

*1:なお、この会社からはありがたくも内定を頂戴しましたが、こちらからお祈り申し上げてしまいました

生活は簡単に変わらない

インターネットで生活術指南の記事を見ることは多い。しかし生活というものはそう簡単に変えられない。私も以前は「こういう工夫をしたら料理が楽になるよ」という記事を書いたことはある。だが今では少し考えが変わっている。

死の悲しさと生活が変わることのストレス

身の回りの人が死ぬということについて深く考えてみたことがある。知人や家族が死ぬとひどくショックを受けるものである。人じゃなくてもペットや植物でも良い。しかし、ほとんど喋ったことのないような遠い親戚が死んだ時は悲しくはならない。

この違いはどこから生じるのだろうと考えたとき、生活を共にするものに死なれたかどうかがポイントだと思った。生活の中に他者が組み込まれていて、その他者が死ぬと生活が変わる。この生活の変化によって人はストレスを受けるのだ。一般的には心に穴が空いたとか、その人がいないことに直面させられる、とか表現すると思う。死による他者の不在そのものが問題にされるものだ。だが、同時に生活が大きく変わったことによるストレスも受けていると思うのだ。実際に、他者の死から立ち直れるかどうかは生活を立て直せるかどうかにかかっているところがある。近しい人が死んでも新しく生活を立て直せたらきっと生きていけるのだと思う。

生活は癖でできている

生活は基本的に変えない方がいいし変わらない。無意識にやっている癖みたいなところもある。生活がいいところで安定しているならば変える必要はないのだ。変える必要があるのは生活そのものでストレスが生じている時である。

生活は癖の塊のようなところがあるのでその人の癖にあった生活を作らねばならない。他人の生活は他人の癖とルールによってできている。それを自分の生活に取り入れることは大抵できない。例えば私はトイレットペーパーやティッシュ、野菜などの在庫の量を常に把握している。何かが足りなくなりそうになったとき忘れずに買うことができる。世間では几帳面ですごいねと言われるようなことだろうが、別にすごいとも何とも思っていない。なぜかできるというそれだけなのだ。当然苦手な家事もあって水回りの仕事はできればやりたくない。特に合理的な理由はなくてなんとなく苦手というだけなのだ。反対に妻氏は洗濯などの洗い物水回りの掃除が得意、むしろ好みらしい。なのでインターネットでもよく言われるように個々人の癖にあった生活を作るのが一番である。

自分の生活を変えたいとき

問題は今の生活がストレスを生む場合だ。ストレスに感じる原因は世間との比較だとか自分の理想像とかけ離れた癖があるとかいろいろ考えられるがここでは立ち入らない。それよりも、じゃあ生活をどう変えたらいいんだという問いが大事である。生活は癖であるから簡単には変えられないし、他人のアドバイスは参考にならないのは前述のとおりである。

ポイントは自分の癖を把握することだと思う。この癖というものは常に人生を苦しめるもので生活のみならず性格も癖でできている。癖は何か合理的な理由があって獲得されたものだけではなく、大した理由もなく身についているものがある。厄介なことに癖は無意識についてくるものである。無意識に属するものだから簡単に制御ができない。であるから癖を反省して必要のない、あるいは害のある癖であれば生活から取り除けるようにしたい。そのために癖の言語化=意識化が必要なのである。

癖は簡単に変わらないものではあるが、これは害のある癖だということが強く意識されれば、少しずつ変えて行ける。誰でもそうだとは主張しかねるのだが、私の経験においてはそうだと思う。また癖そのものを変えなくても、無意識の行動が起きることを予測し先回りして害にはならぬよう手を打つことができる。直すのが難しい癖もあるだろうからこちらがメインの対策かもしれない。

まとめ

このように自分の生活は癖でできていてそう簡単に変わらない。しかし自分の人生は有限で時間だけが平等に与えられているから、効率的な生活はしたい。癖によって効率が悪くなっているならば改善したい。それが現代人のよくある望みだと思う。処方箋は自分で考えろということになるのだが、生活の問題において考えるとは、自分の癖を把握することなのである。

おまけ

生活を変える具体的方法

真似をして実際に行ってみるしかない。やってみずに「そんなことできるわけがない」と言い訳をする人は多いのだが、たいてい自分の癖についてよくわかってないので、やってみるまで自分に向いた方法かどうかは分からないものである。

癖を言語化する方法

他人が指摘してくれるといちばんいいが、家族でもなかなか言ってくれないものである。自分で内省するしかない。日記がおすすめ。

本はおもしろければよい

おもしろい本を探したい

本を読むのが好きだ。だが、なかなかおもしろい本にはめぐり逢えない。九割くらいは「つまんないなー」となる本で、残りの一割を探すために読んでいる。最初の数ページでダメだとわかることもあるし、半分読んだところで雲行きが怪しくなる本もある。おもしろい本は読んでいて夢中になり、続きが気になってしまう。読後感もよい。

長く読書を趣味にしているが、本探しには失敗し続けてきた。できればヒット率を三割くらいにしてみたい。そこで、おもしろい本を探すにはどうしたらいいか、そもそもおもしろい本はどういう本なのかを考えてみた。

内容とサービスが充実した本はおもしろい

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考えた結果、図のような仮説がでてきた。内容とサービスでだいたいの本が評価できて、両方揃っているとおもしろい本になる。以下ではそれぞれの評価軸について詳しく述べる。

内容とは読んで得られる知識のことだ。内容=新しい知識は多いほうがよい。ただし興味がない本から知識は得られない。興味がなければ目が滑り読む端から忘れてゆくものだ。本を読む動機は何よりもまず興味である*1

サービスがよい本とは「読者が楽に読める本」のことである。サービスが悪い本は読みづらく、話がどこへ転がってゆくか見通せないものである。また、筋だけでなく著者の態度もサービスに関わる。行き過ぎた自慢や説教は読者を不快にさせる。読者のことを慮ってよく伝わるように、そして素直な態度で語るのがよいサービスである。サービスがよければ読者は自然に没入して内容に集中できるのである。

おもしろい本は内容があってサービスがよい。わかりやすく、たくさんの知識を授けてくれる。つまり読書として効率がよい。そして楽しい。グラフの右上にいくほど傑作になりやすい。人生の宝物にする本もここから出てくるだろう。

だが、内容とサービスがよくても万人に読めるわけではないことを注意しておこう。どんな本でも読者のレベルを想定して書くもので、何かしらの前提知識は必要だ。小学生に大学生向けの講義はできない。

読書というコミュニケーション

そもそも読書とは学校の授業のようなものである。教壇の先生が生徒=読者に向かって話すコミュニケーションだ。一方通行のお話だから、先生=著者のトークスキルがいる。わかりやすく、退屈させないように、そして全体像がわかるように話してくれるのが理想だ。

ただしコミュニケーションには相性がある。学校の先生に何を言ってもおもしろい人がいただろう。自分にとってはおもしろいのに、それをつまらなさそうに聞いている人もいる。相性が合う人の話はずっと聞いていられるし、合わない人の話は聞くに堪えない。

どんな本でも著者の性格が見えてしまう。論文のような固い文章でも著者の性格が伝わり、相性の問題が顔を出してしまうのだ。だから、世間でおもしろいとされる本でも相性が悪ければ読めない。自分にとってのおもしろい本とは、著者との相性がよくて、かつ内容とサービスが充実しているものである。

逆に、内容がなくて相性とサービスだけで売る本がエッセイである。エッセイは語る内容はなんでもよくて、サービスと語り口が大事である。極端に言うと、著者の性格だけで本ができている*2

おもしろい本を当てられるのか?

内容、サービス、人柄で本を評価できることがわかった。では、この観点で立ち読みをしたらおもしろい本を当てられるのだろうか?

そううまくはいかない。もちろん質の低い本は弾ける。説明が下手な本、文章が下手な本は序章を読めばわかる。それでも少し読んだくらいではどうにもならないのが本の難しいところである。タイトルに惹かれて最後まで読んでも、本当に知りたかったことが書かれていないことは多い。著者の能力不足なこともあるし、著者と読者が違う方向を見ていることがよくある*3*4

というわけで、読書は審美眼があっても宝探しになってしまう。上記の評価方法で一割の当たりを二割にできるかもしれないが、それより大事なのは見切りをつけることだろう。お金を出して本を買い、最後まで読まないのは惜しいが、それよりも時間のほうが大事だ。内容がない、サービスが悪いと思ったらその本を読むときではないのだ。すぐに本を閉じて棚にしまうべきである。よっぽど合わない本だと思ったならば売ればいい。

それでも宝を探してしまう

読書はそんなお金を浪費する趣味でいいのか?いいのである。そもそも人生は暇で仕方がないし、おもしろい本を読む喜びは格別である。おもしろい本には、他のどんな娯楽にも負けない快楽がある。例えるならば、親しい友人と夜通しお喋りをするような楽しさだろうか。楽しくて、かつ知識や新しい視点も得られる。なので、読書という趣味はやめられない。

余談: 内容とサービスは書物以外にも当てはまる

内容とサービスを言い換えると、「退屈しないか」「UI/UXがよいか」という評価基準になる。これは映画やゲーム、漫画にも当てはまる。漫画で説明すると、漫画のサービスはコマ割りとめくりの工夫、台詞の少なさである*5。いい漫画もサービスが大事で、読者に負担をかけないよう読ませるものである。これはすでに言い尽くされたポイントだとは思うが。

 

 

*1:自分の興味がわからない、何にも興味がないという人はサービスのよいナントカ入門を読むと興味探しができます

*2:人生の切り売りになっているので飽きられるのも早いことがある

*3:つまり興味とは向いている方向が大事である

*4:読者が自分の向いている方向をわかってないこともよくあり、まさにこれがおもしろい本に逢えない理由である

*5:キャラも大事だがキャラとはなんなんでしょうね

妻氏が昼寝から起きるのを待ってみたが全然起きてこない。つついても寝たままである。仕方がないのでフレスコへ行くことにした。ちょうど野菜も肉もなくて、しかし明日の朝に買いに行くのはちょっときつい。今のうちに買い物を済ませる作戦だ。だが、日曜夜のフレスコは地獄だった。人が多くて棚が空っぽ。みんな日曜は買い出しをしているようだった。野菜もないし肉もない。精肉コーナーでおっさんが「鶏肉これしかないの」と聞いていた。見てみると胸肉しかなかった。なるほど皆さん鶏肉ばかり食べている。どの棚も高い物は売れ残っていた。牛肉なんかはほとんど手がつけられていない。国産ニンニクが売れ残るスーパーであるから、倹約家が多いのだろう。惣菜コーナーも欠品が多く、魅力的なものはなかった。

日記抜粋 2021/09/12

漫画家である妻氏の進捗管理・餌やり

私の秘密の日記におもしろ表現が出てくることがある(らしい)ので抜粋して不定期連載します。

(妻氏の)ネームを連休中に仕上げねばならぬ。残りのページ数を聞いたら十ページくらいだと言われた。けっこうきついかもしれない。明日は来客が二回ある。どうすればいいのか。萩尾望都の自伝的漫画を読むと、絶食して紅茶を飲みながらネームをやるさまが描かれていた。moko氏も夜更かしをして深夜にネームをやるのは静かでお腹が減っているからだそうな。小林銅蟲もドカ食いをするとネームができるらしい。おそらくネームとはそういうふうに異常な状態へと自分を追い込まないと進まないのだ。そして、男性漫画家の場合はそれが致命的なやり方になるので五十歳で死ぬのである。女性の漫画家はなぜか絶食方向へ向かう。

 

萩尾望都はアシスタントがそっとおにぎりを出しておいてくれるので、それを無意識に食べるらしい。moko氏は静かなのが大事らしいので、ネームの雰囲気を感じたらまったく話しかけないようにしようと思う。(中略)というわけで、moko氏への餌やりを私がやることになった。パンはたくさんあるので、てきとうに焼いて横に置けばよい。紅茶もポットにつくりおきすることにした。それで机から出ないで作業ができるようにする。今やっているネームはもう終盤ではあるのだが、ネームのやり方を確立しておく価値は高いだろう。深夜にうまくいくということは、きっと萩尾望都の方式でよいのだ。 

 2021/08/15 の日記より

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