non117's diary

料理と哲学をします

週報 2023/01/22 RSSで記事を集める, ピアノを再開した

近況

大寒である。一年でもっとも冷える時期。やってられないので、すべてを諦めてソファや布団で寝てすごしている。

今週は同人誌の締め切りがあった。妻氏の主催するサークルの新刊を作っていた。 新刊と言っても、自主連載している漫画を集めて本にするだけなのだが、ちょうど書きかけだった最新話の仕上げも重なって忙しくなった。でも、今回はかつてなくまともな進行で、深夜まで作業せずに入稿できた。次こそは早割りで作りたいものである。

ギャグ漫画、お楽しみください。https://seiga.nicovideo.jp/watch/mg712718

できごと

  • Tweetbotが死んでしまった。お墓もできている。
  • 妻氏がAirPods Proを洗濯してしまう。干したらなおった。
  • ダイソン球は完成せず。
  • 呼吸の大事さを思う。集中→呼吸が浅く→腸が止まる→自律神経わるく。
  • 京都はゆるやかな坂になっているのを実感。帰りの自転車がきつい。

ピアノを再開した

『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響で、演奏もよいなと思った。素直に影響を受けるとギターやベースに手を出すところだが、ピアノにした。ピアノの経験があり、電子ピアノが家にある、という事情もあるが、それよりも一人の演奏で音楽として成立するかを重んじた。

弦楽器の音は好きで、ギター、ベース、バイオリンも魅力的なのだが、これらの楽器は一人で弾くより、組んだほうが(圧到的に)楽しい、という特徴がある。他方、ピアノは88個も鍵盤があって音域は広いし、ピアノ単体で複雑な音楽を演奏できる。楽譜もいっぱいある。人と組むのも、いや、組むからこそおもしろい、という話はあるが、私は自分のために弾ければそれでよかったので、ピアノにした。

十年ぶりに練習をすると、昔よりも正確に楽譜が読めるのに気づいた。十代の頃はあまり楽譜を読みとらずに、なんとなくで弾いていた。音の強さや長さ、タッチ表現はちゃんと楽譜に書かれている。なるほど、楽譜は音楽の「言語」であり、書かれたとおりに弾けば、音が再現されるのである。

楽譜がちゃんと読めるようになり、耳も肥え、好みの曲もはっきりしてきた。これなら独学でピアノを再開しても大丈夫だろう。ふだんは家の電子ピアノで弾き、たまに近所のスタジオにあるグランドピアノを借りて弾こうと思う。

twitterの衰退

twitterが衰退し続けている。非公式クライアントを禁止したのは、APIサーバーのコストが無視できなくなった、等の合理的理由があるのだろう。おそらく多数派のユーザーには影響がなく、移行を強いられたユーザーも時系列表示機能やリストを使えば、最低限同じ体験にはできる。古参ユーザーからすると劣化しているのだが、依然として多くの人が留まっておりプラットフォームとしては強い。twitterは情報流通の経路を握っており、人間関係のグラフデータ構造自体に価値がある。人々がなんとなくタイムラインを見続ける限り、このネットワークは金になるだろう。

しかし、twitterを脱出する人々も目立つようになってきた。万が一twitterが消滅したら人間関係が失われる。もう二度と連絡できなくなる人もいるかもしれない。そうしたリスク、あるいはその他不満のために、mastodon等への移住が起きている。私もmastodonでの生活を数年続けており、userstreamがなくなった第一次mastodonブームのときに移住している。その後数年間、mastodonで生活し分散SNSも善し悪しだな、と思うようになった。今はSNS自体を相対化し、 一歩引いたところから利用している。

SNSには大きく、二つの機能がある。知人の近況共有と、ニュースである*1SNSは、 DMやグループチャットと違って、「会話」をしなくても近況が得られる。この特徴は明確にメリットであり、SNSという専用のシステムを使う意味がある。ニュースは「バズった」「炎上した」「トレンドに入った」「よく記事が読まれた」等々の話題共有のしくみ、機能。正直なところ、SNSにおいてニュースがよい働きをしてきたかは疑問である。害の方が上回っていなかっただろうか。SNSでニュース・記事を見つけると、たいてい不快な感想、コメントがついてくる。 

RSSで記事を集める

近況を知るのはSNSでよいとしても、ニュースは別の手段で集めればよい、ということに気づいた。こうしてRSSを頻繁に見るようになった。Google Readerはもうないが、RSSリーダー自体はまだまだ生きているし、より便利になっている。

RSSリーダーはInoreaderを使っていて、ブラウザのタブに固定モードで表示している。一日に何回か、RSSリーダーのタブを訪問し、新着記事をながめる。気になったものがあれば、タブに開いておいてそのうち読む。基本的に流し読みをして、文章がわかりにくかったり、つまらなくなったらタブを閉じる。そう簡単によいコンテンツには出会えない。ひまつぶしだと思ってクオリティは求めない。たいてい、仕事や書き物、読書の助走として、やる気がないときに読む。

SNSにリアルタイム処理は必要なのか

RSSで記事を読むようになって、SNSのリアルタイム性は必要なのかな?と思った。mastodonTwitterを再現するために、たいへん負荷のかかる仕組みを実装している。一つトゥートを投げると、それがフォロワーのサーバーに書き込まれるのだ。一般に、書き込み処理はコストが高く、サーバー規模拡大の足かせになる。mastodonのsidekiqワーカーおよびプロトコルのActivity Pubに問題があるのは周知のとおりだ。

インターネットで情報を流すとき、その仕組みを作るソフトウェアエンジニアはしばしばPubSub(出版-購読型モデル)に遭遇する。PubSubをPull型で作るか、Push型で作るかはいつも議論になる。そして、たいてい正解は中間にある。PullとPushを併用する。twitterも、有名人のツイートはPullされ、小さなアカウントはPushする仕組みになったと記憶している。書き込み処理はコストがかかるから。

脱線した。問いは、SNSの同期頻度が高すぎるのではないか?である。どうせヒマつぶしにすぎない。近況共有のツールであり、もともとの名称はマイクロブログである。そして本質的な価値は人間のネットワークにある。リアルタイムである必然性はないのではないだろうか。もし、リアルタイム性を減じられるならば、システムをPull型よりに作れる。これは、RSSに近いものになるだろう。

*1:SNSは議論のツールとして民主主義が云々、という意見は無視してよい。ややこしい議論は対面でやったほうが効率的である。

週報 2023/01/15 古典に通ずると文章がうまくなる, 納得したことだけに従う

近況

連休の終わりの日、休みが終わることへの現実逃避としてDyson Sphere Programをはじめた。昨年のゴールデンウィークにもしていた。休暇を食いつぶす自傷行為である。

工場を作る道具を作る工場

これは道具屋筋と呼んでいる工場群である。工場を作るための道具を生産しているから道具屋筋だ。

Factorioをはじめとする自動化ゲームはコンベアを引き回して工場を作る。しかしコンベアを引くのはめんどくさい。どの自動化ゲームも中盤に無線輸送システムが使えるようになる。かわいいドローンたちが物資を積んで、工場の間を飛び回ってくれるのだ。Dyson Sphere Programにも、新たな種類のドローンが追加され上図のような工場を作る工場を作れるようになった。

月曜日にはじめたので、当然まだクリアしていない。労働の日常に戻ってもまだやっている。休暇で生活位相が二時間ズレたこともあり、生活はガタガタである。

できごと

  • 僧帽筋が意識できるようになり、より姿勢がよくなった
  • 関西コミティアの新刊に向けて作業をしている
  • 「語るな示せ」という標語を思いつく
  • RSSリーダーをタブに常駐させるとよいのに気づいた
  • 週報を手書き→OCRで書くようになった

2023年は忙しくなりそう

さいきんの感染状況と社会の反応を見るに、人々はコロナ禍を気にしなくなりつつある。オミクロン系統が最後なわけがないので、致死的な株ができて元に戻る可能性はあるし、後遺症や人が死にまくっている問題はあるが、「空気」として気にしなくなった。慣れてしまったのだ。私もコミケに行っているように、(覚悟をして)イベントに参加するのがふつうになった。マスクをして人との距離に気をつかえばそれなりに感染回避できることもわかってきた。このまま「with コロナ」が 実現され続けるだろう。

こうしてアクティブに動きまわる社会が戻ってきた。きっと今年は忙しくなるのだと思う。人々が動いてイベントを発生するから。イベントごとが好きな人が多いのは理解するが、私は今年も家でじっとしていようと思う。コロナ禍が云々ではなく、コロナ禍前から、土日は家で過ごす性格なのだ。でもまわりはよく動くようになるので、影響はあるし、受けてしまうだろう。だから今年は忙しくなる。基本的には家に居つつ、疲れない程度には付き合っていきたい。

Mendako Sphere Program

民俗学の旅』を読んだ

宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んだ影響で、宮本常一の自伝『民俗学の旅』を読んだ。宮本氏も語りが上手で、読みやすく、文章も上手だった。これもなかなかよい本である。

特におもしろかったのは、文字の浸透と文明開化で、人々の話し方が変化したことである。

私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以後の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっきり知ることができた。(p109)

この傾向はその後も続き、現代人の言葉づかいともつながっているだろう。我々は概念的で、自分でも意味のわかっていない言葉を使う。20世紀はもっとも日本語が変化した100年に違いない。

古典に通ずると文章がうまくなる

宮本常一、細野善彦もそうなのだが、古典を専門とする人は文章が上手な傾向がある。これは別に定説ではなく、我が家で勝手に言われていることだ。他にも林望橋本治高島俊男などの例がある。我が家で「この人の文章は上手だね」という話になると、その著者はたいてい古典の教養がある。

おもしろく思って、ためしに徒然草を原文で読んでみた。すると、古典は文章の圧縮率が高く、短いセンテンスに多くの意味がこめられているのがわかった。なるほど、文章の圧縮率は大事である。意味が詰まっていると、ハイコンテキストで解釈が大変なのだが、反面、想像をする余地、楽しさがある。圧縮が極まると俳句や短歌になるので、テキストのコンパクトさは文学性とも関連があるのかもしれない。また、上の引用にもあるように、昔の言葉はリズムが大事にされていた。

リズムは大事だ。七五調の言葉をなんとなく覚えてつぶやいてしまうように、リズムのよい言葉は頭に入りやすく、残りやすい。皆、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。」はなぜか覚えているだろう。リズムが大事なのは、喋りが減って読みが中心になった現代でも変わらない。多くの人は「内言」を使って読んでいる。

古典からは、今と変わらぬ日本語のリズムを習得できるのだと思う。高校生の私はこんな価値があるなんて知らなかった。センター試験の練習では平気で20点をとって、そのままにしていた。今になって、古典の大事さを認識して驚いている。でも、気づけてよかった。今年は日本の古典も読むだろう。

言語はリズムが大事なのは日本語に限らない性質だろう。フランス語にはフランス語のリズムがあり、リズムの感覚を身につけることがネイティブレベルの言語理解になる。たぶん、文法もリズムという抽象に対する具体的性質の関係にあるのだろう。

納得したことだけに従う

近年、我が家の人々のメンタルはたいへん安定している。人からどう見られるかは気にしないし、好き勝手、自分がよいと思ったことだけをやる。

安定しているのは、納得を大事にしているからだと思う。「納得」とは世間での意味とは少しズレていて、「自分の価値観を肯定する理由が複数あること」である。「納得」するための説明・論理は複数なければならない。ひとつではダメで、できればみっつ以上ほしい。

例えば一汁一菜は、「野菜をたくさん食べて健康でいたい」「でも手間は最小にしたい」「おいしさもあって飽きないようにしたい」「コストも安く済むならそれがいい」を満たすことができる。健康もおいしさも、時間もコストも大事なものだ。大事な価値観を四つも叶えられるのだ。とても強い論理である。

これくらい強いアイデア、主張にだけ従うようにすると、自信を持って生きられる*1。強い理由が複数あるので、そう簡単に他人の批判には負けない。また、自分でも疑いをはさむ余地がなくなる。自分にとっての「真理」と言ってよい。どうでもいい価値観、あるいは理由がひとつしか挙げられない主張は「留保」し、従わない。無視する。それでいいし、 困ることもない。特に、生活においては自分が主人なのだ。納得レベルの低いものに気をつかう必要はない。

こういう態度を頑固だ、子供だ、と言う人もいるかもしれない。実際、そう簡単にはなびかないし、頑固だと思う。しかし、従わなかった主張に強い説明があるのがわかったならば、ただちにそれを受け入れる。この態度はまた、節操がない、手のひら返しだと言われるだろうが、別にそれは構わない。

我々はイデオロギーや所有感情に従うのではなく、納得、強い論理に従うだけなのだ。こうしていると、生活がシンプルになるという実利はあるし、論理的な一貫性はあるので、それでよいのである。

*1:納得した行為を生活に組み込むと、日常の実践で価値観が肯定されるので自己肯定感が高まる

週報 2023/01/08 餃子・ベーコン・股火鉢

連休の様子

コミケが終わり、正月休みに入った。当初懸念していたCOVID-19への感染もなく、家の片づけや料理、読書をして過ごせた。

元気にすごせたかというとそうでもない。我が家は二人とも夜型で、連休には必ず夜更かしをしてしまう。2時か3時に寝て正午前に起きる。当然自律神経は狂うので、毎日まぶたがピクピクしているし、足も冷える。また運動不足と寝すぎで腰も痛くなる。

休めているのかそうでないのかよくわからなくなる。我々は業務というペースメーカーがなければ健康でいられない。たとえフルリモートには適応できても、フルフレックスはダメだろう。適度なコアタイムがないと病むタイプである。とはいえ、別に積極的に働きたいわけでもない。休めるタイミングでは躊躇なく有給をいれる。

このようにして今日まで不健康な正月休暇を過ごしていた。

料理: ベーコンと餃子の皮

冬は寒くてやる気がないのだが、連休ともなると料理をしてしまう。ほとんど本能であり、やりたいとかやりたくないではない。気がついたら料理をしてしまっている。

今回は

  • サブジ
  • うどん
  • カレー
  • ベーコン
  • 餃子

を作った。

サブジ年報で存在を思いだしたから。クミンが効いていておいしい芋料理である。油脂が少なくて保存してもうまい。うどんはいつもの製麺趣味である。カレーはなんとなく食べたくなって作った。肉や野菜に塩をふってから炒めて、蒸し煮にしたら澄んだ味になった。カレーなのにクリアな味があって意味がわからなかった。

薄く切るとカリカリベーコンにできる

今回の変わり種、新しい経験はベーコンと餃子だった。ベーコンはコミケに行く前から仕込んでいた。豚バラ肉に塩をふってピチットシートで包んでおく。数日寝かせて水分が抜けた肉をけむらん亭で燻製に。できたベーコンはまさに本物のベーコンだった。思うに、スーパーで買えるベーコンは偽物、というか薫香がなさすぎる。おそらく薫香をまじめにつけると癖が強すぎて売れないのだと思う。でも私は煙臭いベーコンのほうがいい。深煎りのコーヒーやフルボディのワイン、樽の香りがするウイスキーが好きな人はこちら側だと思う。

ぎょぎょぎょ

この餃子はなんの変哲もない餃子に見えるが、皮が手作りされている。我が家には製パン・製麺技術があるので、いけるだろうと思って挑戦してみた。その結果、たいへんな苦労をした。たしかにモチモチでパリパリな皮ができた。ホットプレートで焼いたのに店の餃子みたいな味になる。それはよかったのだが、問題は皮を作り餃子を包むのに2時間かかったことである。

何がまずかったのか。手作業で皮を作ったのが問題だった。中力粉と水、塩を練ってひも状の小麦塊にし、10g単位で切って伸ばすのが皮の作り方だ。指先ほどの小麦だんごを麺棒で伸ばせば餃子の皮ができるのだが、この作業が苦痛だった。皮は作業台や麺棒にくっつきまくるし、手作業で数十枚の皮を作る工程そのものが非効率である。

正解は製麺機を使う方法である。麺を作るのと同じようにまず麺帯を作る。ここで麺帯を切らずに型で抜いたら餃子の皮ができるのだ。圧延工程が機械任せで、一気に数十枚の皮が生産できる。こうすべきだった。というか、工場ではこの方法で作っているようだ。

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家の片づけ: オイルレスヒーター購入

暇を使って生活空間のメンテナンスをした。まず、オイルヒーターの買い換え。これまでデロンギのものを使っていたのだが、ついに壊れてしまった。壊れる瞬間に電子部品の焦げる匂いがしたので絶対に使わないほうがいい。修理という手もあったが、現代のヒーターによりよいものがあったので買い換えた。

eureksのオイルレスヒーターを買った。形状はオイルヒーターに似ているのだが、油は入っていない。だから軽い。もはやただの熱容量がでかいヒーターなので、オイルレスと修飾する必要はないのだが、なぜかそう呼ばれている。油が入っていないので軽くてコンパクトなのが特徴だ。

このタイプの、新世代のヒーターは各社から製品が出ている。我らが山善のものもあった。もちろんデロンギのもある。しかしデロンギの製品は高かった。8万円もするのだ。ちょっと出せない値段だな、となって半額で同等の性能であるeureks製のものを選んだ。知らないメーカーだったが長野のオイルヒーター企業らしい。

シュッとしてる

見た目はこんな感じで、上部にMac Proのおろし金みたいな穴が空いている。稼働させるとここから熱気が昇ってくる。冷気を下から吸う構造らしい。ファンがついていないのに空気が巡って不思議である。

今のところ、性能・UIには満足している。ほどよく温かいので股火鉢だといってまたがったりする。乗ってはいけないが。

 

その他、以下のメンテナンスをしていた。

  • Switchプロコン修理: スティック補正が効かないほどドリフトしてしまった。バイトができない。
  • 加湿器のフィルタ交換: 昨春に汚れたフィルタを捨てたのを忘れたまましまっていた。動かしても水が減らないのを不思議に思っていたらフィルタがなかった。
  • リネット送り: 小型家電といらないケーブル、使わないPCなどを送った。付属品のUSBケーブルが溜まりすぎ。
  • 靴の調整: 誂靴の仮合わせをしたさいに、メイン靴の調整をしてもらった。足が痛くなる対策として1mmのソールを入れた。1mmなのに履き心地が変わる。
  • ソファ・椅子のクリーニング: 木目に塗るワックスの蓋が開かなくて苦労する。割った。

挿絵

読書: 『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』

哲学・精神分析の本を読んでピンとこなくて困っていたところ、『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んでみた。文章が上手で内容に興味があったため、熱中して読むことができた。3時間で読みきってしまう。久しぶりのよい読書体験になった。

この本は歴史学者網野善彦氏が『忘れられた日本人』という本について解釈した講義録である。『忘れられた日本人』とは、宮本常一という柳田國男に次ぐ伝説的民俗学者の書いた本で、昭和初期の農村の様子を描いた傑作である。今の人が読んだらびっくりするような、「常民」の性的奔放さ、女性・老人の強さが語られる。私もこの本を読んでから読書の楽しさを知ったところがある。それくらいの金字塔である。

網野氏の解釈の力点は「女性の強さ」「東西日本の差異」「百姓は農民ではない」にある。

農村での「女性の強さ」は中世あるいはそれ以前から続く文化である。女性は公的な世界からは隠れていたが、繊維産業の担い手であり独立して金を得る技術を持っていた。また、女性が一人旅できるような環境もあった。西欧だと考えられないことである。我々の受けている教育では女性が抑圧されてきた、というふうに教えられるが、そうではない側面もある。

「東西日本の差異」について。西日本と東日本の人間の形質的差異は、西日本と朝鮮半島のそれよりも大きいという事実、そして、文化もフォッサマグナより少し西側で断絶がある、という話。これは関西で生まれ育った人からするとよくわかると思う。今でも東西の差はある。

「百姓は農民ではない」というのは、『忘れられた日本人』および宮本常一の主張ではなく、網野氏の持論である。我々は百姓=農民と思いがちだが、これは間違いで、統計上の「百姓」には漁師、工人、商人などが含まれていたよ、という話。水呑百姓も小作人ではなく、商人だったりする。このあたりの話は『日本の歴史を読みなおす』が詳しい。

という本だった。とても読みやすくていい本である。『忘れられた日本人』が前提になっているのでこちらから読むとよい。『忘れられた日本人』も読みやすい。

音楽の侵襲性

『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響でいろいろ音楽を聴いている。アジカンの『Re:Re:』とNUMBER GIRLの『OMOIDE IN MY HEAD』を気に入って毎日聴いている。

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音楽をYouTubeであさると、どんどん時間が過ぎていく。特にライブ動画はアーティストのパフォーマンスにも見どころがあり釘付けになってしまう。音楽それ自体に意識が持っていかれるのに、映像まであると書き物や読書が捗らない。

 

三島由紀夫の『戦後日記』に「他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。(中略)音楽に限っては、音はむこうからやって来て、私を包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ」と書かれている(p38)。また、先日Twitterで「リズムやメロディという抗いがたいメディアに意味のわからない歌詞がのせられて、押しつけられるから歌詞のある音楽が苦手だ」という趣旨の発言をみた。

たしかに音楽は侵襲的で意思を阻害する。リズムがあり、時間が流れていくメディアなので曲の途中で止めるのが難しいし、曲調がよいとうっかり聴いてしまう。勝手に頭の中に入ってくるものだから、不自由さを強いる恐ろしいものだと言える。戦時のプロパガンダにも使われた。

音楽は、実は恐ろしいメディアである。特に、感受性の高い人は苦労するだろうなあと思った。

知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割

onk.hatenablog.jp

はてなブックマークを眺めていたらこの記事が流れてきた。記事のポイントの一つである「(発表は)知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割」という原則を知って驚いた。たしかに大事だと思う。
私は新しいこと、聴衆が知らないことに5割くらい割きがちである。間の論理もよくすっ飛ばしてしまう。新しい内容を1割に抑えるのは「サービス」に必須であろうなと思った。

アプリの島

今やインターネットサービスを「Webサービス」として認識する人は少ないだろう。PCユーザーは減り、サービスはブラウザのタブではなく、アプリとして使うものになっている。特にBtoCの、マス向けのサービスでこの傾向は強い。

各種サービス同士の距離は遠くなっている。PixivはPixivに閉じていて、ニコニコ動画ニコニコ動画に閉じている。サービス=アプリが「島」のように孤立している。スマートフォンの狭い画面ではURLを意識しないようになっている。

もちろん例外はある。テキストのSNS、とくにTwitterだ。Twitterだけがブラウザのように、各種サービスへのリンクを持って参照する立場にある。短文を扱うサービスだからだろう。URLと相性がよくてシェアボタンの投稿先になっている。

Twitterが各「島」を参照する構造が今後どうなるかはわからない。この構造が良いとも悪いとも言えない。スマートフォンのUIの制約、各種サービスの性質によってこうなっているだけだ。

Twitterは今後どうなっていくか雲行きが怪しいが、Twitter内で投げ銭ができるようになると窮地に立たされるサービスも多かろうなと思う。fantia, skeb, fanboxそしてYouTubeも。インターネットのグラフデータ構造の多くはTwitterのなかにある。各種サービスはそれに乗っかっているところがある。

キャラクターは欠点から作る

『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ていたら、どのキャラもめんどくさい人間だと思った。みんな欠点を持っていて不器用なところがある。でも、その欠点は不快には見えず愛すべき短所として機能している。逆に長所もあり、物語を進める道具としてキャラの能力が活かされる。
一般化すると、キャラクターを作るには短所を考えたらよいことがわかる。これ自体はよくあるセオリーかもしれない。短所は抽象度が高いとよいだろう。そのように作ると、広く「共感」されるものになる。

 

週報 2023/01/01 『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた, モノを介在したコミュニケーション

小さな風邪をひいていた

25日あたりに小さな風邪をひいていた。少しだけ喉が痛んで熱は出ないものの、だるくて無気力になる体調不良のこと。

鍼の先生によると冬には小さな風邪を何度もひいているものらしい。小さな風邪を放置するとその辺のウイルスにやられて発熱する。

冬に無気力になったらすぐに休むのが大事である。葛根湯が効くのもこの段階だ。熱が出てからでは遅い。

『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた

連休に入って時間ができた。すこし気になっていたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』をAbema TVで全話みた。ちょうど無料公開中で助かった*1

 

以下ネタバレを含む。

アニメスタッフが行間を埋めまくっているよいアニメ化

このアニメ化では原作の2巻中盤までエピソードが消化された。1巻と半分である。おかしくないだろうか?ふつうの漫画だと4、5巻まで進むことも珍しくない。どうなっているのか。

第5話 12分

なぜこんなことが起きたのかというと、原作がもともと濃密だからだ。一コマあたりの情報量が多い。しかも行間が省略されている*2。例えば第5話、姉試験ライブ前の自販機シーンは、原作だとこれだけなのだ。

第1巻 p81

アニメ版の後藤と虹夏の会話の本質は、たしかに原作で表現されている。しかし、会話の「間」や後藤の苦悩は明に描かれていない。四コマというメディアの制約でもあろうし、後藤がいちいち悩むのは自明ではあるから。でも、そこを丁寧に映像表現にしたのがアニメスタッフの偉いところだ。よいアニメ化とはこのことである。

ライブで「覚醒」することってあるの?

フィクションだと主人公がよく「覚醒」する。「覚醒」は現実でも起きるのかな?という野暮な疑問が出てきた。

よくあるのは偶然うまくできるケース。バトル漫画ではこの流れが多いと思う。修行中に偶然うまくいって、それをモノにすることもある。偶然うまくいったものを成果に繋げるのは、現実でもよくある。ペニシリンの発見などが好例。でも、『ぼっち・ざ・ろっく!』の「覚醒」は偶然うまくいったわけではない。

第8話のライブ中覚醒に関しては、次のような解釈はできる。後藤は練習量が多く、他のメンバーと違って初ライブでもまわりをみる余裕があった。そのため、予定外のギターソロで他メンバーを刺激し意識を揃えることができた、と。逆に第12話では喜多に冷静さと余裕があった。

となると、ライブパフォーマンスでの「覚醒」を支えるのはふだんの練習量と、本番での冷静さ、なのだろうか。これならば現実でもありそうである。

雑感

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モノを介在したコミュニケーション

昨日まで冬コミ、C101に参加していた。夏と同様に妻氏のサークルの手伝いである。

 

同人誌の対面販売はただの買い物ではないな、と思った。どうしてもコミュニケーションが発生する、というかコミュニケーションが目的で本を刷っているところがある。コンビニでのほぼ自動化された処理の対極にある。

本があれば会話ができる。どれを買うか、どこまで持っているのかの確認、お金のやりとり、そして最後に一言軽い感想、応援コメントをつけたり。会話がほとんどなくても、立ち読みをして全部買っていかれると、それだけでも伝わるものがある。言葉すらいらないことがあるので、広い意味でのコミュニケーションである。

だから新刊は必ず持っていかないといけないのだな。我々のコミュニケーションの苦手さをモノによって補っているところがある。新刊がないと、何を話したらいいかわからなくなるし、すぐに会話は途切れてしまう。新刊によって作者と読者はつながっているのだ。

8時半についた

古いスマートフォンが現役でフロントエンドエンジニアは困る

コミケ会場でiPhone 7らしき端末が使われているのをみた。それなりの数が動いていた。古いiPhoneスマホ向けWebサービスを作る人にとっては天敵で、たいていSafariは謎のバグを抱えている。古いSafariのためにたいへんなデバッグをして特殊なプログラムを書くことになる。

まだ世の中でたくさん動いていることを知っておそろしい思いをした。どうかOSのバージョンは最新まであげて、サポートが切られたら買い替えてほしい。

ううう。

スピノザ』を読んだ

サービス: ○, 内容: ○

國分先生の新しい主著。スピノザ修論時代からの専門らしい。スピノザ生涯とその哲学を俯瞰し解釈する本なのでちょっと難しい。『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』みたいなわかりやすさはない。ゴールが不明瞭な本ではある。

でもおもしろかった。「真理経験は数学の証明みたいに、自分で示す体験をすることで得られる」「古い言葉の理解を深めることで、古い言葉で新しい概念を表現できる」というくだりがよかった。また、コナトゥスと変状のモデルはふだんの内省に便利である。

*1:12/31に無料期間は終わっている

*2:逆にサービスは微妙で読みにくくなっているとは思う

年報 2022年 週報を一年続けた

週報ふりかえり

昨年の12月に週報を始めた。毎週土日に、一週間の出来事や雑感を三千字程度の記事にまとめる試み。それを一年続けてみた。

なんではじめたの?

  • 某漫画家が週報で近況共有をしていたものの真似
  • 昨年末に一年分の日記を読もうとして多すぎる!無理!と思った
  • 日記ではない公開の記事もあれば文章の練習になるかなと思った

という事情があった。

年末のふりかえりはやりやすくなった。週ごとの記録だと、ほどよい粒度で当時の出来事や気持ちを思いだせる。でも、52本の記事を読み返すのもまた大変だった。四半期ごとに読むのがよさそうである。

文章の練習にはなったと思う。最初は二日かけて書いていたが、今は下書き、清書あわせて二時間くらい。シンプルに短く書く意識も芽生えた。テキスト筋のトレーニングとしてよかった。

テキストエディタの変遷

そんな週報だが、テキストエディタには悩んだ。一年かけて

と、変遷してきた。今は日記をアウトライナーで書き、一週間ぶんの日記を読みながら紙に下書き。最後にUlyssesというテキストエディタで清書にしている。

作業環境の変遷

書きものをする環境も課題だった。机では集中できなくてソファで書いてみたり、カフェに篭ったり。ブレークスルーは「空間には文脈がある」という発見だった。まじめな作業をする場とリラックスする場を分けたらうまく作業ができるようになった。

発見と反省

週報を読みかえしたところ、以下の発見と反省があった。

初夏はアクティブ

5月や6月は新しい料理に挑戦したり、物を買ったりと活動的なのがわかった。8月や12月、1月はだるそうにしているのだが、気候がいいと元気になるらしい。5月の過ごしやすさを考えると納得できると思う。また、同様に10月も精力的だった。これも気候。夏の疲れがあって5月ほどではないけども。

このように、自分の一年の調子を把握できた。新しいことに挑戦するときは初夏がチャンスだ。ゴールデンウィークを費やして初速を出すとよいだろう。

ゴールを意識して書く

何が言いたいのかわからないテキストがちらほらあった。省略が多かったり、適切な段落分けがされていなかったり。何を伝えたいのか意識をして書くのが大事だとわかった。ゴールがないとすぐに筋は混乱してしまう。

愚痴をやるならおもしろく

愚痴のテキストもあった。共感を求めるならともかく、頭の整理に書いていただけなので公開すべきではなかった。愚痴をやるならおもしろくすべきだと思う。

2022年ふりかえり

ここからは週報を使って一年のふりかえりをする。

週報によく出てきた話題を

  • 時事
  • プログラミング
  • 料理
  • 読書
  • 哲学・人生の考えごと

にジャンル分けする。あまり社会には関心がないほうなのだが、大きな事件が起きると影響を受けるようだった。

時事

年初はウクライナ戦争が話題だった。1月下旬からきな臭くなり、2月にはついに勃発。生きているうちに戦争らしい戦争が起きてしまった、という衝撃を受け、なぜロシアはこんな判断をしてしまったのか西側諸国との違いはなんなのか、と考えていた。

3月には電気が足りなくなった。きっかけは関東の地震。夜に都内で電気が止まった。停電したその瞬間に友人と通話しており、会話が途絶えたのを覚えている。その後も発電機が足りない騒動が起きた。夏や冬に電気が足りなくなるかも、と不安を覚え太陽光パネルと巨大蓄電池を買って災害の備えとした。

4月はヤクルト1000がよく売れていた。私も睡眠には関心があり、コンビニで見つけては買って帰る生活をしていた。今も気になっていて、できれば入手したいのだが最寄りの店では見かけなくなってしまった。レディと契約するといいのは知っているが、そこまででもないのが悩ましいところ。

今年は同人イベントも復活した。妻氏のサークルが数年ぶりに関西コミティアに参加し夏コミでも頒布をしたコミケは台風が来ていた覚えがある。シャッター近くで風が強かった。外で並んでいる人たちが雨に降られたり。

9月末にはSplatoon3が発売された。ヒーローモードが難しすぎる、と週報に書かれている。その後、イカはサーモンランばかりやっている。

10月にはお絵描きAIが登場して騒動になっていた。私は生成する側で楽しんでいた。そのためにGPUを買ったりもした。ついこの間までテキスト生成AIも話題に。きっと来年もAIにふりまわされることだろう。

プログラミング

仕事でコーディング・レビューをしていて気づいたことや、アウトライナーを自作して思ったことが書かれていた。

コミットが新しい順に読むとレビューしやすい(ことがある)」と「入出力をロジックから遠ざける」が仕事での発見。

アウトライナーを作っていた頃、以下の記事を書いていた。

料理

もっとも量が多かった話題。やっぱり料理が好きらしい。元気な時期にはいつもと違う料理をしていた。

など。ほとんど一時のブームで終わってしまったのだが、ザワークラウトは今も続けている。妻氏が好んでおり、食べているとお腹の調子がよくなるらしい。

調理技術・知識も身につけていた。

特に「蒸し茹で」が大事なスキルになった。これは土井善晴の『一汁一菜でよいと至るまで』という自伝に書かれていた調理方法。鍋に少量の水と野菜を入れて火にかけると、ふつうに茹でるよりもすばやく火が入る、という技術だ。一汁一菜弁当で用いている。朝は時間がないので。

家業の同人漫画 https://manga-no.com/works/104ce380aaf95ef6064

読書

読書も大事な趣味である。今年もよい本をたくさん読めた。

積んでる本からてきとうに読んでいるので、今年発売でない本も混じっている。基本的には哲学・思想の本が多く万人に勧めるものではないが、「みんなのユニバーサル文章術」「現代思想入門」はわかりやすいのでおすすめである。

哲学・人生の考えごと

人生とか生活、人間について考えたのが以下の記事。

今年は「偶然性」がテーマだった。いかにして偶然的で所与な自分を受け容れ向きあうか。判断しきれないところを運に委ねるか。などなど考えていた。おおよそ結論は出ていて、自分の性質は事実であり内省によって分析するしかない、決めきれないことはコインに決めてもらったらよい、というものである。

結び

以上が今年のふりかえり・まとめである。

週報はやってよかった。自分の備忘録が主目的だが、インターネットにコンテンツをおすそ分けすることも意識している。

来年も続けるつもりである。よいお年を。

おまけ

お気に入り記事集

  1. インターネットに情報を増やしたい
  2. 土井善晴氏の観察から出てきた大阪文化の分析
  3. 悪意の出てこない物語
  4. 性差と身体
  5. 日本でモルモットは野生化できるのか

週報 2022/12/25 そうめんをほどいて収納する, お花・植物・ねずみちゃん ほか

免許更新のオンライン講習が便利だった

これこそがDXだと思った。ゴールド免許更新の講習が家で受けられるのだ。使うのはスマホマイナンバーカードだけ。免許更新センター現地での事務作業は20分。入所してから30分で新免許証を受けとることができた。

ただし以下の注意点がある

  • オンライン講習のサイトへの誘導が貧弱なので、警察署HPではなくGoogle検索で見つける
  • オンライン講習へのログインにマイナポータル連携が必要だが、エラーが出てリトライが必要になる
  • オンライン講習の動画を観ながら、途中で3回自撮りをする
  • オンライン講習を受けた場合の(京都駅前での)更新手続きは10時半からである(早めに行ったら追い返された)

というふうに、罠はいっぱいあるが便利ではあった。使わない手はない。

サーモンランの考え方

1回のゲームのなかに無駄な時間はない。これがポイントだと思った。つまり常に盤面を有利にするような行動をすること。オオモノが出てこないからといって遊んでいてはいけない。シャケ・コジャケを撃滅したり、コンテナ周辺の治安を維持することで盤面は優勢に傾く。こうやって有利になる行動を積み重ねるとWave3までクリアできるようになるのだ。

というかこれってゲーム一般の性質だ。サッカーとかにも適用できそう。ミクロな行動で有利さを積み重ねマクロな結果を動かす。将棋もそう。

ゲーム一般の考え方は言語化できたのだが、実際にそのように動けるかは別の話である。具体的な立ち回りは練習するしかなさそう。

そうめんをほどいて収納する

好きな食べ物第一位はそうめんである。うどんやラーメンではなくそうめん。小学生の頃から一貫してこうだった。今や朝食にそうめんを食べることすらある。箱買いもよくしている。

そうめんは束だと扱いにくい。夏場にそうめんを食べるとき、1束だと少ないが2束食べたら多かった、という経験をした人も多いだろう。朝食や間食としてのそうめんも1束ではなく1.5束食べたいことがよくある。

束なんてものがあるのが悪いのだ、ということで紙テープを外してパスタケースに入れて保管してみた。

自由なそうめん

そうめんを食べまくっていると乾麺の量感覚は勝手に身につく。見たらわかる。それでも困ったら重さを測ればよい。

本棚に食糧をいれる悪癖があります

また、見た目もおもしろい。立っている乾麺をチラ見するとパスタかな?と思うのだが、よく見ると白いのだ。違和感すらある。

今回使ったのはOXOのケースだった。ヨドバシカメラで見つけて買ってきた。見た目も機能もよいケースだったのでおすすめである。

お花・植物・ねずみちゃん

妻氏と雑談をしていたら「あなたの無害さはお花・植物・ねずみちゃんのようなものなのだ」と言われた*1。これはどういうことかというと、ふつうの人は感情を撒き散らして生きているものだが、私はそういったドロドロしたものを抱えておらず、かつ、垂れ流すこともないから家にいても平気なのだ、という話である。ただそこに生きていて、感情的なエゴの発露をしない、という点でペットのスナネズミプランターの植物と同じカテゴリーに入れられている。決して悪い意味ではない。

感情がない?

感情がないということはない。映画やノベルゲームで感涙したことはあるし、体調不良で怒ることはある。しかし、かなり安定していて情緒が揺さぶられることが滅多にないのは事実である。

なぜ安定しているのか?

他人の感情の影響を受けにくいからだと思う。アファンタジアであることが関係している。

例えば、知り合いのXさんがSNSで家族の愚痴をツイートしているものとしよう。おそらくファンタジア、ふつうの認知の人であれば、怒って愚痴る知人Xの姿、音声が脳内再生されると思う。その人の怒っているさまがありありと描写されるから、その感情からダメージを受ける。

しかし、私はこのイメージができない。脳内で人間の姿形や顔、音声が再生されることはない。ただ知り合いであるXさんが、何らかの事情で怒っているのだなあ、と思う。事実をそのまま受けとる。このように、他人の感情の発露を見ても影響はほとんど受けない。だから安定している。

感情の影響を受けないのはいいことでは?

もちろんいいこともある。便利だとも思っている。特にこのSNS時代においては。

しかし他方で、影響を受けないことは共感能力が乏しいことも意味する。共感は示せないことが多いし、日常的な感情の発露も少ないので、冷たくて無神経な人間だと思われることも多そうである。まあ実際にそうなのかもしれないのだが、能力的にイメージできないのだからどうしようもない。

家に落ちてた落書きです

共感ってなに

共感をするには、相手のイメージをビビッドに描く必要があるのだと思う。ただの情報処理ではない。脳内での再現、追体験が必要なのだ。

共感能力を支える脳内再生、イメージの能力は人によって異なる。アファンタジアでも多少はイメージできる人がいる。私のように味、体性感覚、皮膚感覚、イメージ、人の声、すべてが再生できない人もいる。また、イメージ能力自体はあっても、その鮮明さが人によって異なる。頭の中に詳細なイメージを描ける人、曖昧でブラーのかかったイメージを描く人、さまざまである。

であるから、共感能力はもともと人によって大きく異なるものなのだろう。インターネットで言われる「共感」は「共感を示すこと」まで含意されることが多いので、感受性と言うのが正確だろうか。感受性は人によって大きく異なる。これなら意味が通りやすいだろう。そのうえで、共感を示すのか、共感を示したふりをするのか、は各人の選択である。

よかったツイートオブザウィーク

インフラを整えると生産性があげられる

情シスなんかはまさにこういう仕事をしている。インフラそのものだけでなく、インフラを整備するための予算の余裕も大事だろう。SaaSの導入とか。

文化的な側面として、Wikiの使いやすさがアウトプットの量を決めるとかがありそう。UIはバカにならない。UIのよさもインフラである。

アメリカの謎の冗長文化

どの分野でもアメリカの本だとこの傾向がある。本当に困っている。

*1:お花と植物が同じカテゴリーでは?とツッコんだが、語呂がいいのでこのままになった

週報 2022/12/18 猫背の克服, 読書感想, 近況 など

近況

日が沈まないうちに家事をする

先週の週報で「暗くなってから移動すると落ちこむ」と述べた。同様に、土日の家事も明るいうちに片づけるのがよいことがわかった。食料品の買い出しは昼間からやるし、調理や掃除も夕方のうちに。そうすると夜は休むことができる。なにより日が暮れてから家事をするとなんだか焦るのだ。土日も明るいうちに仕事を終わらせるのがよい。

自転車のメンテナンスをした

通勤にロードバイクを使っている。学生時代、たしか2011年頃に買ったもので、当時のTwitterの知り合いにそそのかされて買った。下宿と工学部のキャンパスが数km離れていたという事情もあった。その後、京都に引っ越したり就職をしたりと変化はあったが、この自転車は使い続けた。就職をしてお金に余裕ができたらメンテナンスに出してみたり。

先日、この自転車のタイヤがパンクしてしまった。自転車屋に持っていくとタイヤがひび割れているのを指摘され、前後のタイヤとチューブを交換することにした。修理から戻ってくると走り心地が全然違うのに驚く。なるほどタイヤは消耗品である。11年も使い続けるものではない。

また、ヘルメットも買い替えた。ヘルメットの耐用年数は4年程度らしい。これも11年使っていた。たいへん危険である。ヘルメットは潰れることで頭部を守るのだが、潰れるクッション部分が経年劣化するようである。タイヤといいヘルメットといい、肝心なところをメンテナンスしてなかったな、と思った。

残業サポート

妻氏の仕事が佳境らしく、連日残業である。帰ってすぐ温かい夕食が食べられるとよかろう、と思って帰宅するタイミングを狙って調理をしている。自分のぶんは先に作って食べる。二度手間で面倒では?と思われるかもしれないが、最適化された一汁一菜システム*1のおかげで調理は5分だけである(加熱は10分かかるが放置でいい)。5分投じるだけで用意できるならそうしたほうがよい、と思って毎日やってみた。

年末ふりかえり

準備中。今年からは年報と呼ぶべきであろう。1年ぶんの週報を読んでふりかえっている。

戦争準備

どうやら数年以内に戦争が起きるようだ。最悪の想像までしたあと、命が残ればいいかな、と思った。労働ができればどうにでもなる。

読書

『現実逃避してたらボロボロになった話』

サービス: ○, 内容: △

膵炎に興味があったので読んだ。序盤はおもしろかったのだが、後半はダメだった。人生切り売り系はおもしろくするのが難しい。ただ自分の内面をひけらかすのはサービスではないのだ。

自己愛について考える

永田カビの漫画を読み、自己愛が問題になる人は多いな、と思った。知り合いにも自己愛に問題を抱えた人がちらほらいる。これ自体はおもしろい問題だと思って、自己愛および愛一般について考えてみた。

手短に結論を述べると「なんでもお金で買える社会は、なんでも取引になることを意味する。必ず対価が要求される社会において、他者から永続的な愛をもらえる状況はありえない。愛は自分で自分に与えることしかできない」である。この論考は清書が面倒で捨ておかれているが、なんとか年末休暇に書きたい。

『タイのひとびと』

サービス: △, 内容: △

旅物エッセイ。あまりおもしろくない寄りのふつう。

シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント』

サービス: ×, 内容: ○

知人が褒めていたので読んでみた。たしかによいところもあるが、全体的に説教くさい本だと思った。アメリカ的な上昇志向と冗長な語り口も鼻につく。あまりおすすめはしない。

よかったのは中盤。「複利は生活にも適用できて、毎日の積み重ねが結果につながる」「基礎知識、基礎教養を身につけてシンプルに世界をとらえる」という主張には同意できた。以下の幸福の定義もよかった。

私にとっての幸福は欲望のない状態、とくに外的なものへの欲望がない状態だ。欲望が少なければ少ないほど、物事をあるがままに受け入れることができるし、心が雑念で揺れ動かなくなる。
p146

猫背の克服

ついに猫背を治した。

猫背を治すとはなにか。正しい姿勢を理解し、その姿勢を維持したまま歩けることである。

きっかけは月一の社交ダンスレッスン。指導をする先生の姿勢をみて、何が正しい姿勢なのかを理解した。その後、正しい姿勢で歩いていたら、猫背が治っていることに気づいたのだ。

正しい姿勢とは?もちろん言葉で説明するのは難しい。無理に表現をするならば「身長計測の器具に背中を沿わせる感じ」である。少なくとも胴体の上半分はそうするのが正しい。上半分は、と述べたのは下半分は違うからである。背中を反らせすぎると反り腰になって腰痛を招くので、お腹はドローインで締められていないといけない。胴体の上側は仮想的な棒に沿わせ、お腹は常に締めておくのが正しい姿勢である。こうすると、脊椎のカーブも理想的な形になる。

 

克服するのに6年かかった。最初はジムの姿勢・歩行指導を受けた。今ダンスを習っている先生が姿勢指導のレッスンを開いていて、月1回の指導を1年くらい続けた。1年か2年経った時点である程度姿勢はよくなり、知人から別人と間違えられるようになった。しかし、最後のコツを習得するのに4年かかった。このコツは非常に微妙な違いで、他人からみたら胸骨の角度が5°変わったかな?というくらいだと思う。でも、この細部を身につけない限り猫背が治ったとはいえない。頭は重いので正確に胴体の上に載せていないと首は凝ってしまう。

そんなの気軽に治せないじゃん、と思われるだろう。しかし姿勢とはそういうものだ。数十年かけて培った癖なのだから変えるのには数年かかるのも不思議ではない。

京都付近に住んでる方には松村先生を紹介できるのだが、他県の方であれば『日本姿勢と歩き方協会』に所属するトレーナーを探すとよいのではないだろうか。

shisei-aruku.com

*1:前日にタッパーに詰めておいた野菜を煮る、魚は塩をかけてけむらん亭で焼く、米はタッパーに詰めたものをレンチン