しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

タイムラインに流れないものは認知されない。それが今の情報流通である。多くの人々はタイムラインからのみ情報を仕入れている。バズったものが一瞬で消費し尽くされるのも、タイムラインの性質が原因だ。バズるとタイムラインはその話題で持ちきりになるが、そのうち別の話題で押し流されてゆく。

 

twitterで情報はフローとして流れる。ストックされない。ある人のツイート一覧を見に行っても当時の文脈がなくて解読できないものもある。twitter内の情報は流れ続けており、人々はそれをただ眺めている。彼らは流れを変えられない。群体として流れを作っており、その全体的な流れをコントロールできるものはいない。フォロワー数の多い人は流れを作りうるが、流れがどのように変化するかは彼の掌中にない。

 

SNSは暇つぶしに使われている。積んでいる本やゲーム、映画などの消費をしたいが、なんとなくダルい。疲れている。そんなときに受動的に使われるのがSNSだ。コンテンツとして低品質だろうが関係はない。勝手に流れてくれて受動的に消費できるのが大事なのだ。これはテレビと同じ性質である。事実、twitterでは多くのユーザーがRTばかりしている。たいてい意見を言うほどの体力はなくてただ眺めてシェアしているだけなのだ。流れは一部の元気で暇な人によって作られている。

 

ただ流れて消えていく情報の川をみんなで作ってみんなで暇つぶしにしている。それがSNSだ。電気代、ネットワークの維持費を使って自己充足的な暇つぶしシステムができている。エコだとは思う。ただ、これが娯楽の行き着く先だったのだろうかとも思う。ジャックドーシーのSNSで民主主義2.0は暇つぶしに負けるだろう。

 

 

では、なぜ私は記事を書いているのか。私の場合は言語化が趣味なので、書き上げた時点で満足している。ブログには書いていないだけで大量の日記がPCに入っている。しかし、たまに世に出したらいいことがあるかもな、という文章もできる。そういう文章ができたときだけインターネットに流すようにしている。社会学者のジグムント・バウマンは「瓶に手紙を入れて海に流す」つもりで本を書いていた。それを真似している。そのうち誰かが拾って記事の続きを考え始めるかもしれない。そういった連鎖を期待している。