しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

つるんでもひとり

インターネットの人たち、いや世の中の人たち一般はいつも敵味方をよく識別しているな、と思った。また、日常的なコミュニケーションでも特に障壁がなければ仲間を増やそうとしてくる。例えば漫画を勧めて読ませるとか。何を観ても「共感」で判断するとか。

私はどこかの段階で仲間意識をなくしてしまった。これはそのうちブログに書くであろう、私がAphantasia(イメージ盲)だった話にも繋がる。ちょっと認知の形式が違うので波長が合わないのだ。まあ仕方がない。私にはこの認知形式しかないので。ともあれ、仲間仲間、敵だ敵だとやっている社会からちょっとだけ身を引いている気持ちがある。ちなみに妻氏も似たような考えである。いや、むしろ私よりも過激かも。われわれは仲間が云々という考えで行動していないのだ*1

まあ私の話はどうでもいい。それよりも仲間意識で説明できる社会現象が多そうだからこちらを考えていきたい。たぶん理論社会学的な話。バウマンのコミュニティとリキッド・モダニティにも影響を受けている。

なぜ敵味方を識別するのか。敵とか味方を相手にしたとき、情動的な反応が出てくる。情動は脳の古いシステムである。なので敵味方識別は生物の古いファームウェアに実装されたシステムだと考えてよいだろう。そりゃあそうである。敵を高速に識別して逃げたり噛みついたりしないと食べられてしまうのだ。最初は影が見えたら逃げるくらいの解像度だったものが、感覚器官と脳の発達によって高度になっただろう。敵、味方、中立くらいのカテゴリをさまざまな存在に対して判断できるようになる。また、甘いものや交尾の相手など、快楽をもたらす対象も認識するようになる。こうして進化した先に、仲間意識が出てきたのだろう。多くの高等動物は敵味方を識別できる。社会的動物はもちろんのこと、草食動物だって群れを作る。自分と似ているものは敵ではない、とするのだろうか*2

さて、この仲間意識はどのくらい近代社会に浸透しているのだろうか。昨今インターネットでよくみるのは、SNSバトル、超高速な流行り物消費とか。SNSでの闘争に敵味方識別が活きているのは自明だろう。また、流行り物に振り回されるのも仲間についていこうとするからであろう。さらに世間の常識も仲間意識が基盤になっているだろう。古い価値観だが、「就職、結婚、子ども、マイホーム」という規範も多数派がそうするから真似すべきものになっていた。古い社会から新しい社会まで、そして新しい文化にも仲間意識は見つけられる。

「常識」や「みんな」は古い仲間意識ではあるが、仲間意識が支配していることは今でも変わらない。たしかに五十年前の仲間意識は地縁的で歩いて回れる範囲のものだったと思う。しかし、都市化が進み情報の流通が進んだここ三十年において、仲間意識そのものが廃れたことはない。都市的な、土地に縛られない多様な人間関係においても仲間意識は活きている。地縁的なコミュニティから、新しい都市的なコミュニティへと移行しただけである。

われわれの世代で重要だった「アイデンティティ」も地縁的コミュニティから都市的コミュニティへの移行にみえる。都市的な「仲間」は流動的で不安定である。物理的な結びつきが弱いので簡単に縁を切ることができる。この不安定さゆえに、「〜である」ことを求める=アイデンティティの希求が進んだのだと思う。アイデンティティを求める心理は今も変わっていない。SNSのプロフィールに「〜である」かを書く人は多い。インターネット時代においても「〜である」人が集まって群れをなすのだ。

私はであること、すること、できることという記事で、「〜であること」より「〜すること」で「〜できること」を増やすのが大事だと主張した。この考えは今も変わっていない。ブログのサブタイトルに「料理と哲学をする」と書いてあるのはそういう意味がある。「〜であること」は仲間とつるむため、あるいは威張るためのラベルしかない。ラベルは過去の業績であり、過去のラベルにこだわると不自由になると思う。

「~であること」で群れるコミュニティを作ってしまう傾向はこのまま続くだろう。無意識に仲間やコミュニティを求める限り、自らの本源的孤独性を認識しない限りは仲間作りのためのラベリングは手放せないだろう。

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*1:こう言うと、「じゃあお前は敵なのか!」と誤認する人は多いのだが、敵でも味方でもない。たいていは相手を人間として尊重するだけ。普通は「仲間だから尊重する」という原理で動くだろうが、われわれは相手をラベリングする気がない。

*2:似ている人は味方、似ていない人は敵とするのが差別の構造