しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報2022/01/09 生の理不尽さ, 勉強のしかた, 漫画のプラットフォーム

近況

労働

連休の最終日には働きたくないな〜と思っていたのですが、いざ労働してみるとふつうにこなせるのでした。しかし全力で仕事をする気はないので今年もゆるゆるやっていきます。50%出力くらいの気持ち。

体調

ユニクロで買った部屋着ズボンが暖かくて冷えがよくなっていました。鍼での脈診でも肺が良くなっている。このまま油断をしなければ大丈夫でしょう。

ですが、今度は脚の問題が見つかりました。スニーカーを4年くらい履きつぶしていたせいで、靴底が無になっていたのですね。壊れた靴で歩いても脚にダメージが入るだけです。実際に足首が痛み始めていました。左右の筋肉の付き方も変わっています。このままだとやばいので、すぐに靴を買いました。私は特殊な足の形をしているので、アシックスウォーキングへ行って選んでもらいました。

余暇

「露出せよ、と現代文明は言う」という本を読んでいます。久しぶりの大当たりっぽい本です。現代社会では内面が直接接続されている問題が精神分析と哲学の文脈で論じられています。

料理

ずっと朝食の主食に悩んでいたのですが、結局白米を食べると具合がよいことに気づきました。

このままでは週に3回くらい炊飯が必要なのですが、しばらくは気合いで回していきます。炊飯土鍋が壊れたら大型のステンレス羽釜を買おうと思っています。

今週の考えごと

生の理不尽さ

先週は「理不尽な地震やコロナ禍に意味や説明を求めてしまう人間の弱さ」について考えました。週報を書いたあとさらに考えると、「人生の意味はなにか?」という問いも同じものだと気づきました。生まれてきて生き続けている事態も偶然に発生し、偶然に影響され続けるものです。親は意図して子を産んだかもしれませんが、配偶子の結合は偶然的ですし、生まれた子がどんな成長をするかは意図によって制御しきれないものです。人間社会においても生は自然現象の側面があり、誰かが完全にコントロールすることはできません。無意識という身体性もあるので自分自身による制御も効きません。というわけで、どれだけ近代的自我が発達していても、生は近代的な合理性で説明し尽くせる現象ではありません。

なので「人生の意味はなにか?」という問いには出口がありません。生は偶然的・理不尽なものなのです。「この私はなぜこの私なのか?」を一生かけて考えている哲学者もいますが、この問いは偶然性に意味を求めているように見えます。また、似たような問いとして「幸福な人生とはなにか?」がありますが、これもあまり意味のない問いです。死ぬ瞬間まで人生を概観することはできません。どの時点においても過去は確かにありますが、端的に存在するのは現在だけです。いま幸福であることは大事でしょう。ですので「幸福な生活とは何か?」と問う価値はあると思います。一般的なかたちで「幸福とは何か?」を問うのは微妙ですが、各自が引き受けて考える問題としては意味があるでしょう。

勉強のしかた

ここ数年興味の赴くままに読書をしてきて、勉強は「〜とは何か?」「〜はどうなっているんだろう?」という好奇心で進むものだとわかってきました。ですが、これまで受けてきた公教育や大学の講義、教科書を振り返ってみると、「〜とは何か?」に応える形式になっていませんでした。たいていの授業や教科書は知識を木構造に体系化したものになっています。知識を表現するデータ構造としては正しいのですが、学習に向いた構造ではありません。なぜなら初学者にとって細部なんかどうでもいいからです。

理想的な学習は家庭教師がいちばんです。大雑把に全体の見通しを示し、生徒が興味を示したら深く掘ってゆけばよい。興味がなければ放っておく。ですが、全生徒が家庭教師を雇うのは不可能ですし、公教育の思想に反するものです*1。「国民はこれこれの学を修めるべし」という思想においては生徒を教室に集め、権威的な教科書と教師でもって勉強をさせるシステムになります。

教師の力量によっては教室でも家庭教師のようなことができるかもしれません。全体像を示すのは家庭教師でなくても必要でしょう。ふつうの生徒は体系化された教科書を読んでも全体構造を把握できません。強制されて一周したらわかるかもしれませんが、主体性のない学習ほど無駄で苦しいものはありません。なので、授業の合間合間でこの知識が体系全体のどこに位置づけられて、何のためにあるのか、どんな理由で発見されたのかを示せる人がよい教師なのでしょう。

non117.hatenablog.com

私がよい本の条件で挙げた「サービス」にもこの資質が必要なのかもしれません。

漫画のプラットフォーム

商売は新規顧客と固定客がバランスよくいることで成り立ちます。この原則は飲食店だろうが漫画家だろうが変わりません。漫画家にとっての固定客とは、漫画家についたファンのことです。

連載漫画家の獲得できるファン人数は雑誌の読者数=発行部数で決まります。雑誌の枠を超えたファンを得る方法がアニメ化などのメディアミックスです。もちろん口コミでファンが広がり、単行本だけ買ってくれる人がつくこともありますが、単行本が有意に売れる時点でメディアミックスは約束されています。口コミで増えるのはジャンルのファン集団の範囲が限界でしょう。

一方で同人活動やインターネット上での創作はSNSユーザー数が潜在的なファンの数になります。雑誌に比べて潜在ファンの母集団が圧倒的に大きいのです。また、これらの創作活動は商業連載に比べて自由で利益率が高い特徴があります。締切や内容は自分で決められますし、編集の給与を稼がなくていいので商業連載よりも少ないファン数で食っていけます。

問題はどうやってファンを増やすか、です。商業でも同人でも課題になります。漫画雑誌の場合は読者に偏りがあるので、読者層に受ける題材を描く必要があります。一方で同人活動の場合は何も制約はありませんが、情報で溢れたインターネットで人目をひくのは難しいという問題があります。

 

この課題を抽象的に考えると、ファンの獲得は「漫画家と読者をマッチングさせる問題」になります。雑誌の場合は、読者が雑誌を買っている時点でマッチングが成立しています。マッチングをしてみたうえで読者がファンになったりならなかったりしているので、この情報をもとに編集は打ち切りか投資を決めるのです。

インターネットでマッチングといえばプラットフォームです。pixivはイラストレーターとファンをマッチングするシステムですし、Amazon楽天は商店と消費者です。Netflixは動画制作者と視聴者、Spotifyはアーティストと音楽ファンです。検索エンジンSNSもマッチングをするシステムになっています。

プラットフォームは効率的なシステムです。特にインターネット上のシステムとして実装されるとき、威力はとてつもないものになります。経済学における市場の仕組みを素朴に実装したものがプラットフォームなのだから当然です。

 

雑誌はプラットフォームでしょうか?マッチングはさせていますが、プラットフォームではありません。プラットフォームは市場そのものなので、自由に売り手と買い手が参加することが求められます。雑誌は出版社によって連載が規制された市場です。これはプラットフォームになりえません。

では、インターネット上に漫画のプラットフォームはあるのでしょうか?LINE漫画とニコニコ静画はプラットフォームの要件を満たしていました。ですが、どちらのサービスも既存雑誌の転載が主であり、プラットフォームになりうることを認識していないように見えます。プラットフォームになることに対して自覚的なのはマンガノでした。集英社は漫画のプラットフォームを狙っているのかもしれません。

漫画のプラットフォームができたらどうなるのでしょうか?漫画家の利益率は高くなるでしょう。同人誌と同じくらいの収益構造になるはずです。印刷費とかBoothの利用料と同じだけプラットフォーマーが取っていきます。この利益率は印税より高いので既存出版社は困ったことになります。このとき、漫画家にとって出版社を通す価値はあるのでしょうか?庶務をしてくれてアイデアやフィードバックをくれる優秀な編集がついているならばよいでしょう。ですが、優秀な編集がいるならば出版社から獲得する必然性はありません。となると、編集と漫画家のマッチングシステムができる可能性もあるでしょう。

 

十年後に漫画業界はどうなっているのでしょうか。上記の想像どおりになるとは限りません。プラットフォームを軌道に乗せるのはたいへんだからです。いくつもの企業が挑戦して失敗してきました。ですが、今やあらゆるメディアがプラットフォーム化されているので、漫画もそうならないとは言えないのです。

*1:ノイマンはこんな教育を受けていました。欧米の貴族階級は今もやっているかもしれません。