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週報 2022/05/01 『みんなのユニバーサル文章術』を読んだ, 体力を使いきる前に休むために瞑想をしてみる ほか

気合いで仕事を片づけて10連休に突入した。休みのあいだにアウトライナー作りを進め、ダイソン球を建設する予定になっている。

『みんなのユニバーサル文章術』を読んだ

なかなかよい本だった。文章術の本を名乗るだけあって読みやすい。内容もまともだった。

著者のいう「ユニバーサル日本語」とは、読み手が楽に読める日本語である。
なぜ「ユニバーサル日本語」が必要なのか?万人が文章を書く異常な時代だからだ。
90年代前半まではコミュニケーションといえばおしゃべり、電話だった。なのに今ではLINEやメール、SNSで文章を書くのが当たり前だ。誰もが生活の一部として文章を書く時代になっている。

『みんなのユニバーサル文章術』は理論編と実践編に分かれている。前半は漢字の閉じ開き、文字の種類によって与える印象、読みやすさ全般について。
後半はメール、Twitter、LINE・マッチングアプリ、ウェブ記事のそれぞれのシーンで、気をつけるポイントが語られる。

最後のほうで「炎上する覚悟があるプロにのみ言論の自由が与えられている」と書かれていた。残念ながらこれは事実だ。今や育児の愚痴ですら炎上しうる。
たしかに言論の自由は制限されているな、と思った。

水分補給にお湯の水割りを飲む

よく仕事やゲームに熱中して水を飲み忘れる。気づいたタイミングで多めに飲むようにしているのだが、水には飲みやすいものとそうでないものがある。

味がついていると飲みやすいのはそうなのだが、それよりも温度が大事なのに気づいた。
飲みやすいのは冷たいものと温かいもの。常温の水なんかはいちばん飲みにくい。ぬるいビールも嫌だ。お茶もできれば温かいものがいい。

飲み忘れていたときは一気にそれなりの量を飲まないといけない。飲みやすいものを急いで用意せねばならない。
そこでお湯の水割りなのだ。電気ポットの熱湯を常温の水で割る。50℃か60℃くらいがいい。
これを飲むとたちまち身体が温かくなるし気分も落ちつく。
冷えてだるいとき、朝起きたときに飲むのがおすすめだ。

体力を使いきる前に休むために瞑想をしてみる

水分補給だけでなく休憩も忘れることがある。気がついたら気力、体力を使いきっており、横になることしかできない体調になっているのだ。
特にこの時期、春は交感神経が高まって目の前のものに熱中できてしまう。

体力をつけるのも大事だが、こまめに休憩をとるようにもしたい。体力を使いきってしまい、身体から警報が出てから休むのではなく、注意報が出た段階でどうにかできないか。
思い至った方法が瞑想である。じっとして五感を閉じて身体を観察するほかない、というわけだ。

瞑想にはいろいろあるが、いす座禅を採用した。家にある手頃ないすに座り、姿勢を正して深呼吸をするだけ。目は閉じてもいいし眠くなるなら閉じないほうがいい。

これをやってみたところ、体調がダメなときにはちゃんと信号が出ているのがわかった。絶好調だと座禅をしても「無」なのだが、悪いときはちゃんと眠さとか、だるさが感じられるのだ。「無」ではないことを検知したらすぐに休むようにしたい。どうせ、そんなときは何をしてもうまくいかないのだ。

www.sotozen-net.or.jp

御蔭通で廃墟を見つけて日本の自然の強さを思い知る

福仙楼というラーメン屋を目指して左京区御蔭通を歩いていた。妻氏が元田中にある思い出のカレー屋に行きたがったのだ。しかし私は食べ飽きていたので別行動をした。

御蔭通には古い家が多かった。たいてい庭木の手入れが諦められており、植木が歩道にはみ出している。放棄された廃墟もあり、庭だった場所はほとんど林になっていた。

日本の強い自然をみると、西欧思想との違いを思わずにはいられない。
「西欧は緯度が高くて自然が弱めなので、人工的な景観が作られる。一方でアジアは自然が強いので、自然と対立せずにうまくやっていく傾向がある」というやつだ。西欧理性を相対化するときによく語られる。

この二項対立に全面的に賛成する気にはならないが、それでも日本の自然が強いのは事実だ。日本の空き地を10年放置したら数メートルの木が生え草だらけになっているだろう。
植物が豊かで食べものが多いのはよいことだが、農業にとっては迷惑な性質でもある。雑草が生えまくり、大雨や台風で農地がめちゃくちゃになるのをなんとかやっていく。これを養老孟司は「手入れ」と言っていた。日本には「手入れの思想」があると言う。

「理性」で管理しきれないのが日本にとっての自然であり社会なのだ。地震も台風も洪水もある。草は勝手に生える。このような自然の理不尽さ、どうしようもなさがあるから、われわれには先手を打たずに後手でなんとかする傾向があるのだろう。
未来を予想して手を打っておくのではなく、ことが起きてからなんとかする。これがわれわれの気質であり、そう簡単には変わらないだろうな、と思う。

信仰としての自然科学の不安定さ

インターネットでは「査読がない学問は〜」とか「ちゃんと査読をすれば〜」という声をよく見かける。
だが、査読は正しさを保証するシステムではない。

なぜなら自然科学では試料や実験動物、設備が必要だからだ。論文のロジックが間違えてないかどうかはレビューでチェックできるが、実験結果が真理かどうかはわからない。査読者も忙しいのでこまめに追試をするわけにもいかない。ある研究所にしかない試料もある。

さらに、パラダイムというものもある。これは実験結果を解釈する視座の流行り廃りだ。パラダイムは数十年かけて世代交代してゆく。
ある実験結果が得られたことと、それをどう解釈するかは別の問題である。

たいてい、どの解釈にも一定の正しさがある。解釈Aは実験1, 3, 5をよく説明し、解釈Bは実験1, 2, 4をよく説明する、というように。
AとBを総合し抽象化する視座が発見され、すべての実験をうまく説明するようになると、新しいパラダイムができた、と言われる。

哲学や社会学では、社会の出来事や生活の出来事を実験結果として解釈を行う。その点では自然科学の思考方法と違うところはないのだが、解釈がより多様であること、解釈の争いが多いことが人文学を特徴づけるのかもしれない。
多くの自然科学の分野では解釈をするより、新規な実験結果を得ることが大事にされているだろう。実験に重点をおくか、解釈に重点をおくか、に違いがあるのか。

自然科学の諸理論もひとつの解釈である。現時点で主流なパラダイムの寄せ集めにすぎず、永遠不変の真理というわけではない。でも、致命的に間違っているわけでもない。
どこかが間違っている可能性はあるが、おおむね正しいものとして仮固定をしておく。科学に対しては、こういった態度が誠実である。