しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2022/07/30 死の克服について

雑記

弔事が発生してあちこち走り回っていた

手続きと儀式・親戚コミュニケーションなどイベントだらけ。なんとかうまく片付いたと思われる。
いろいろ出来事はあったのだが、週報に書くことではないので割愛。

web3本が焚書されてびっくり

もうすっかり忘れられているが、web3の怪しい本が炎上し、焚書されてから1週間が経った。

徳丸先生もツイートされてたように、検閲に繋がりかねない絶版のさせかたなので諸手を挙げて喜ぶ事態ではない。

 

陰謀論の本、怪しげな健康本など、間違った知識の本はたくさん出版されている。それでも出版を許すのが「表現の自由」である。

今回の焚書で喜んでいるソフトウェアエンジニアらにも問題はあるし、回収まで決定した出版社にも問題はある。

 

SNSの多数派は一冊の本を焚書に追いやるような権力を持つが、多数派の判断が毎回正しくなるとは限らない。

SNSファシズムは、人々の「剥きだしの内面」が直接接続されることで起きている。「露出せよ、と現代文明は言う」で詳しく論じられているので、興味のある人は読んでみてほしい。

www.kawade.co.jp

雑な自炊

生活能力とはレシピのない料理を作る技術なのかもしれない。料理はレシピがなくてもできる。その場にある食材を配合し、火を入れて調味すればよい。

大事なのは塩加減だ。旨味もあればよいが必須ではない。肉があれば旨味はカバーできる。

私の感覚だと、1人あたり小さじ半から小さじ1くらい。2人なら小さじ1強。ただし、塩の粒の大きさによっても変わってくる。慣れない塩を使うときは味見をしたほうがいい。

プロの料理人は調味料の感覚が備わっているのだろう。種類ごとの塩の量感覚だけでなく、醤油や醤の量感覚も発達させているだろう。

死の克服について

死について考える。どうやって死を乗り越えるのかという問題。死には自分の死と他者の死がある。どちらも重い問題である。

他者の死

こちらは昔ブログに書いていた。日常生活を営むことで回復させていく、という解決策。生活能力がある人は回復しやすいだろう、という話だった。

non117.hatenablog.com

生活を続けていくと、死者は記憶のなかの存在になる。忘却をして、その人の要点だけが残る。

他者の死が事実として受けとめられたあと、次は忘却が問題になる。どうしてもいない人のことは忘れてしまう。

忘却すべきかどうか。故人の動画が大量に残っていたら忘却は防げる。しかし、その記録に囚われ続けるのも考えものである。忘れるほうが健全かもしれない。

 

基本の姿勢としては忘れるが、たまに記録を参照して思い起こすくらいがよいだろう。

自分の死

自分の死ほどわけのわからないものはない。私には主観しかない。すべての前提がこの身体と意識である。主観にとって生は世界のすべてに等しいので、自分の死とは、(この)世界が滅ぶ事態を考えろという問題になる。「(あなたの)世界すべてが滅びますがどうしますか?」と言われても「それは言語を超えてますね」となる。

 

自分が死んだらxxが悲しむだろうな、という想像はある。しかし、これは自分の死を考えているのではなく、他者にとっての他者の死を考えている。

自分の死という問題そのものは存在しないのではないか。

他者へのダメージを軽減する

近しい他者の生活が破綻しないように手配しておくこと、記録を残すことが大事ではなかろうか。

だが、そのうち忘却はしてもらったほうがいい。重荷になるのは本望ではない。たまに思いだしてね、くらいの気持ちで記録を残すのがよさそうだ。

また、重荷にならないために人間関係をまともにしておく、という話もある。重く依存されたまま死ぬと大変なことになる。物理的にも精神的にも。

残り時間の問題

時間が足りない、という問題はある。これは死そのものの問題ではない。健康寿命の問題である。身体を壊してしまったら生きていても時間が減るから。

身体を壊さないための手段として車に気をつける、お金を稼ぐ、自炊をするといったものがある。避けたいのは死ではなく、不健康余生である。

 

健康な時間を使って人生で何かを為したい、という人は多い。その筆頭が子孫の繁栄であろう。あるいは事業でも名声でもなんでもいい。

しかし、事実としては生に目的なんてものはない。何をしてもいいし、何もしなくてもいいのが現代の生き方である。人生で何かを為すかどうかは趣味の問題にすぎない。豊かな人類文明の生は、ほとんどが暇つぶしである。

生物は子孫繁栄が目的である、という言説もあるが、これは間違いである。生殖のための機能が備わっているから生殖をすべきだ、とは言えない。少なくとも人間のレベルにおいて機能を使うかどうかは自由である。

 

趣味のレベルとして何かを為して残す、これならありだ。残りの時間を稼ぐための活動をして、余った時間を趣味に投じる。現実的な解はこれである。

実際に私の日記や週報もそういう目的で書かれている。遺書兼暇つぶしである。