しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2022/08/14 コミケ・ニーチェア・ミトコンドリア

C100サークル参加

妻氏のサークルの売り子・手伝い・道案内・雑用係としてC100に参加した。

サークルスペースは東1シャッター近く。壁に並ぶため?のシャッターが一つ開いており、台風由来の風がびゅうびゅう吹き込んでくる場所だった。

ポスターも見本誌シールも何もかも飛んでいく環境。設営時にがんばって固定しまくった。近所のサークルでもたびたび倒壊事故が起きる。

 

コミケ自体はサークルとして三回目の参加だった。妻氏が以前、二次創作で頒布していたのについていった。今回はオリジナルとしての初参加。

コミティアの経験からオリジナル漫画を売るのが難しいのは承知していたのだが、思ったよりは売れたと思う。漫画のサンプルを貼りだしておいたのがよかっただろうか。

また、知人がたくさん挨拶に来てくれた。席を外していて会えなかった方もいるが、ありがたいことである。なかには10年くらいぶりに会う人もいて、コミケという場の力を感じた。

 

ただ、久しぶりの遠征サークル参加というのもあり、課題は多かった。KPTで反省する。

Keep

ポスターの裏に在庫段ボール箱を置き、物置にする

風で倒れるポスタースタンドの重石として在庫を置いたのだが、意図せずよい配置ができた。販売オペレーションがしやすかった。

漫画のサンプルを印刷して貼っておく

けっこうサンプル漫画が見られていた。サンプルをみて買っていった人もいたので、それなりに結果につながっている。立ち読みする度胸のある人は多くないので、有効だろう。

ポスターをでかくする

卓上ポスターの限界サイズであるA2で作ってみた。これ以上大きくすると巨大ポスタースタンドが必要になり荷物が増える。バランスがよかったのではないか。

Probelem & Try

荷物が重い問題
  • 一部の設営グッズを在庫と一緒に送らなかった
    • 荷物が重くなって移動がしんどかった。必ず設営資材も在庫とともに送ること。
  • 電源装備は軽くできる
    • 最新に近いiPhoneはけっこう電池がもつ。軽くて小さいバッテリーでよいはず。
    • 私の場合はiPad Proがバッテリーになるので、余計なモバイルバッテリーを持たないのも大事。
    • AC to Type-Cチャージャーも軽いものを選ぶこと。これも重さに効いてくる。

今回はとにかく荷物の重さが気になった。軽くしていきたい。リュックは軽くして手提げを重くするのも大事かもしれない。手提げは重くても気にならない。

宿の寝具が合わない

緊張もあったとは思うが、二人とも3時まで寝られなかった。枕もマットも合わなかったと思う。

以前はドーミーインをよく利用していた。値段が高いのがネックだが、睡眠は大事だ。

次は寝具に力を入れている宿を探す。

水分不足になっていた

熱中症初期段階だったかもしれない。とにかく水分をとり続けること。アクエリアス2本飲んだらなおった。

佐川急便の搬出で2時間並んだ

おそらく台風の影響もあると思うのだが、在庫段ボール箱を佐川急便に預けたのが18時だった。2時間並んでたいへんしんどかった。

対策として、早めに搬出する、コンパクトな荷台を作る、を考えた。あまり早くに搬出すると売る物がなくなってしまうので、塩梅は難しい。

椅子が1脚しかない

コロナ禍になってから、コミケでもコミティアでも椅子追加ができなくなった。どのサークルも売り子は立っている。

感染対策に気をつかう運営者の事情もよくわかるのだが、椅子がなくても人が密集して喋っているのだから復活してもよいのではないかなあ。

アンケートか何かで主張してみてもよいかもしれない。

 

以上。いろいろと収穫があった。このまま数日間発熱しなければ、コミケ遠征は大成功となるであろう。どうなるやら。

 

ニーチェアを買った

折りたためるオットマンを探していてニーチェアの存在を知った。オットマンだけが目当てだったのだが、家具屋で座ってみたら、なんともいえぬ癒される感じがした。畳めるからいいや、ということで椅子本体も買うことにした。

なんと畳める

家で座るとちょっと座り心地が違う。いいのはいいのだが、なにか体験が変わっている。椅子というものは、店と家とで座り心地が違うことがよくある。

 

いろいろ試したところ、椅子は地面の材質が大事なことに気づいた。フローリングに置くと座り心地も堅くて、畳だと柔らかくなるのだ。

よく考えると当たり前である。床が柔らかいほうが体重がうまく分散されるのだろう。オフィスチェア以外だとどの椅子でもこの原則が通用するだろう。椅子は床が柔らかいほうが心地良くなるのだ。

畳で座るようになったら体験がよくなった。より上を目指すなら絨毯が必要だろうが、それは将来引っ越したときに考える。

ミトコンドリア・ミステリー』を読んだ

bookclub.kodansha.co.jp

まあまあおもしろかった。ただ、ちょっと作者のドヤ顔文体がムカつく。理系の著者によくある態度だ。ブルーバックスからしょうがないんだけども。

 

本書のポイントは、ミトコンドリアの頑健な対フリーラジカルシステム。
フリーラジカルとは体細胞を破壊してまわるヤバい物質なのだが、呼吸(クエン酸回路ぶん回し)をすると必ず発生してしまう。
フリーラジカルがDNAにぶつかると、 DNAを破壊することがある。修復機能でカバーできないと癌や老化、細胞死の原因になる。

フリーラジカルは酸化をする物質。対抗してフリーラジカルを打ち消すのが抗酸化物質。聞いたことあるでしょう?ビタミンCとかが抗酸化物質ですね。

細胞の核のDNAはバックアップが1つある。ミトコンドリアもDNAを持っていて、こちらのバックアップは千個くらいある。なぜなら、フリーラジカルミトコンドリアでの呼吸で大量発生し、近所のミトコンドリアDNAを壊すから。ミトコンドリアDNAはめちゃくちゃ壊されまくるが、バックアップが大量にあるから問題にならないのですね。
一方で核DNAは1バックアップしかないので、壊れると致命的。

 

ちなみにミトコンドリアはもともと別の生物で、真核生物に寄生して居ついたものである。植物の場合はさらにシアノバクテリアあたりが居候して、葉緑体を提供している。

生物学の高校レベルの知識があれば読める本だと思う。知らない人には難しいかも。おすすめ度△くらいの本です。

 

皮膚炎

ストレスで体調が悪化し、皮膚炎になっていたのを鍼とお灸と運動で治した。血流やらもろもろが悪くなっていたとのこと。

私は汗をかきにくい体質なので、クーラーに当たってないで汗をかくようにしたほうがよい、とのことだった。もちろん葬式ストレスにやられてそれが激化したところはあるのだが、やばいときほど散歩はしたほうがいいのかもしれない。

 

皮膚がかゆいと何事も手につかなくなる。今週は休暇だったのに、ほとんど回復に充ててしまった。

 

その他

ブルアカの最新シナリオを読んだ。よかったですね。

国際展示場駅

週報 2022/08/07

『暇と退屈の倫理学』を読んだ

分厚いが読みやすく、おもしろい本だった。

テーマは「暇と退屈」の哲学。やることがなく、何をやってもつまらない、なんとなく退屈だ、そういった気分を分析した本である。

いや、私は忙しい、趣味がたくさんある、という人もいるかもしれない。しかし、趣味のYouTube鑑賞、お絵かき等々をしつつ、なんとなく退屈だ、暇つぶしにならない、と思うことはよくあるだろう。

 

目の前におもしろいものがあるはずなのに、なぜか退屈さを感じることはある。我々は退屈さから逃れることはできない。

こういった退屈さに正面から立ち向かい、問うのがこの本である。通読すれば、各位の人生に何か変化があるかもしれない。

 

ちなみに私はこの問題を「人生の暇さ」問題と呼んで長く考えてきた。

「人生の暇さ」問題への私の解答は「おもしろい労働」である。労働の内容をおもしろくすることで、暇さを解消しつつ、もろもろの利益を得る。そういう暫定解を出している。

「おもしろい労働」にありつくのが大変なのは理解しているが、理想的な解としては、これである。つまらない労働は賃金が高くてもやりたくない。

また、何が自分にとっておもしろいのかわからない、という自己探求の問題もある。これは各人答えが違うはずので、よく考えるとよいだろう。決して流行りの職、ただ儲かるだけの職に飛びついてはならない。

夏休み突入

お盆より1週間早く休暇に入った。本当はお盆に休むつもりだったのだが、ふつうに間違えてしまった。直前に変更ができないのでそのまま休んでいる。

でもちょうどよかった。葬式が終わって1週間しか経っておらず、今になってストレスが身体に出てきたところがある。けっこう体調が悪い*1ので、何もせずにゆっくりする予定だ。

リコリコを見ようとしたらゴキブリが出た

グラスにワインを注ぎ、さあ見るぞ、というところでゴキブリと出会った。やあ。🪓

倒すのに1時間かかり、リアルタイム視聴を断念して寝た。

知り合いが感染しまくっている

幸い我が家はまだ無事である。先日の葬式の会食で感染しないか心配だったが、今のところ感染していない。

とはいえ、もういつ感染してもおかしくない状況である。明日にも発症するものと思って備えをしている。

回復者によると、喉の痛みが強烈らしい。助言に従い、龍角散と喉スプレーを買った。

それでもなんとか回避したいが、お盆で人が移動するのであと数週間は第七波が続くのだろう。

引っ越しを考えたがたぶんしない

弔事もあって人生について考える。親の世話をしやすいところに引っ越すか?等々検討したが、車の運転をしたくないので、都市部から動けないことがわかった。自動運転タクシーが廉価になるまで、このまま都市に住む予定である。

家も手狭になってきた。もう少し家賃は出せるので、広いところへ移るのもありなのだが、引っ越しと住所変更が面倒である。

しばらくは工夫でどうにかするだろう。家具の配置をいじるだけで家は広くなるものである。

オットマンを探しに家具屋へ行った

京都の丸太町駅の南に夷川という通りがある。昔から家具屋が多く、今でもいくつか営業しているらしい。

なかでも大きな「家具の川上」という店へ行き、オットマンを探した。オットマンとは、足置きのことである。椅子に座って休まるには足置きが大事なことがわかってきたので、探しているのだ。

この家具屋はなかなかよい店だった。3Fまで所狭しと家具が並べられていて、とにかく量がある。ACTUSより充実していると思う。

かわいい計算機

近代的オフィス

オフィスチェアコーナーにはなぜか機械式計算機とPC98が置かれていた。変な店である。

有名な椅子はオカムラ、ストレスレスの製品があった。試座したい人はここに行くとよいだろう。

咀嚼しながら読む

さいきん読書がうまくできていなかったのだが、「いちいち立ち止まらずに数ページまとめて読む」ことに気をつけたらスランプから脱することができた。読書、というか思考はある程度のまとまりが必要なようである。

これに関係する問題として、1年くらい前に「意識が細切れにされている」という趣旨の記事を書いたことがある。

non117.hatenablog.com

過去の私はSNSを減らして解決した、と言っているが、読書では失敗している。結局気を抜くと意識が細切れになってしまうようだ。癖である。現代の病。

 

昔の本は一節が長い。平気で10ページくらい続くこともある。今では新書・学術書どちらも2, 3ページ一節が多い。

思考のひとまとまりのサイズが変わってきているのだろう。チャンクサイズとでも言えばよいだろうか*2。チャンクとは塊という意味である。

細切れにされた意識・思考の単位をチャンクと呼んでみると、昔の人はチャンクサイズが大きく、今の人は小さいと表現できる。

「効率的」なコミュニケーションによって、チャンクサイズは限界まで削られている。SNSだけでなく、ファスト映画とかYoutube Shortsがよい例であろう。

 

我々は時間を食うコンテンツを忌避しがちである。なのに、短いコンテンツを大量に摂取して時間を浪費する。我々は長い時間を使うのが嫌なのではなく、単に大きな塊を食べられなくなっただけなのだろう。

小さなコンテンツが大量にあるのだから、チャンクサイズが小さくても問題はない。しかし、私は読書で困るのでどうにかしようと思う。今のところ、解決策は「気合い」しかないが。

*1:汗がでないし皮膚が痒い

*2:本当に認知心理学にチャンクという用語があるようだ

週報 2022/07/30 死の克服について

雑記

弔事が発生してあちこち走り回っていた

手続きと儀式・親戚コミュニケーションなどイベントだらけ。なんとかうまく片付いたと思われる。
いろいろ出来事はあったのだが、週報に書くことではないので割愛。

web3本が焚書されてびっくり

もうすっかり忘れられているが、web3の怪しい本が炎上し、焚書されてから1週間が経った。

徳丸先生もツイートされてたように、検閲に繋がりかねない絶版のさせかたなので諸手を挙げて喜ぶ事態ではない。

 

陰謀論の本、怪しげな健康本など、間違った知識の本はたくさん出版されている。それでも出版を許すのが「表現の自由」である。

今回の焚書で喜んでいるソフトウェアエンジニアらにも問題はあるし、回収まで決定した出版社にも問題はある。

 

SNSの多数派は一冊の本を焚書に追いやるような権力を持つが、多数派の判断が毎回正しくなるとは限らない。

SNSファシズムは、人々の「剥きだしの内面」が直接接続されることで起きている。「露出せよ、と現代文明は言う」で詳しく論じられているので、興味のある人は読んでみてほしい。

www.kawade.co.jp

雑な自炊

生活能力とはレシピのない料理を作る技術なのかもしれない。料理はレシピがなくてもできる。その場にある食材を配合し、火を入れて調味すればよい。

大事なのは塩加減だ。旨味もあればよいが必須ではない。肉があれば旨味はカバーできる。

私の感覚だと、1人あたり小さじ半から小さじ1くらい。2人なら小さじ1強。ただし、塩の粒の大きさによっても変わってくる。慣れない塩を使うときは味見をしたほうがいい。

プロの料理人は調味料の感覚が備わっているのだろう。種類ごとの塩の量感覚だけでなく、醤油や醤の量感覚も発達させているだろう。

死の克服について

死について考える。どうやって死を乗り越えるのかという問題。死には自分の死と他者の死がある。どちらも重い問題である。

他者の死

こちらは昔ブログに書いていた。日常生活を営むことで回復させていく、という解決策。生活能力がある人は回復しやすいだろう、という話だった。

non117.hatenablog.com

生活を続けていくと、死者は記憶のなかの存在になる。忘却をして、その人の要点だけが残る。

他者の死が事実として受けとめられたあと、次は忘却が問題になる。どうしてもいない人のことは忘れてしまう。

忘却すべきかどうか。故人の動画が大量に残っていたら忘却は防げる。しかし、その記録に囚われ続けるのも考えものである。忘れるほうが健全かもしれない。

 

基本の姿勢としては忘れるが、たまに記録を参照して思い起こすくらいがよいだろう。

自分の死

自分の死ほどわけのわからないものはない。私には主観しかない。すべての前提がこの身体と意識である。主観にとって生は世界のすべてに等しいので、自分の死とは、(この)世界が滅ぶ事態を考えろという問題になる。「(あなたの)世界すべてが滅びますがどうしますか?」と言われても「それは言語を超えてますね」となる。

 

自分が死んだらxxが悲しむだろうな、という想像はある。しかし、これは自分の死を考えているのではなく、他者にとっての他者の死を考えている。

自分の死という問題そのものは存在しないのではないか。

他者へのダメージを軽減する

近しい他者の生活が破綻しないように手配しておくこと、記録を残すことが大事ではなかろうか。

だが、そのうち忘却はしてもらったほうがいい。重荷になるのは本望ではない。たまに思いだしてね、くらいの気持ちで記録を残すのがよさそうだ。

また、重荷にならないために人間関係をまともにしておく、という話もある。重く依存されたまま死ぬと大変なことになる。物理的にも精神的にも。

残り時間の問題

時間が足りない、という問題はある。これは死そのものの問題ではない。健康寿命の問題である。身体を壊してしまったら生きていても時間が減るから。

身体を壊さないための手段として車に気をつける、お金を稼ぐ、自炊をするといったものがある。避けたいのは死ではなく、不健康余生である。

 

健康な時間を使って人生で何かを為したい、という人は多い。その筆頭が子孫の繁栄であろう。あるいは事業でも名声でもなんでもいい。

しかし、事実としては生に目的なんてものはない。何をしてもいいし、何もしなくてもいいのが現代の生き方である。人生で何かを為すかどうかは趣味の問題にすぎない。豊かな人類文明の生は、ほとんどが暇つぶしである。

生物は子孫繁栄が目的である、という言説もあるが、これは間違いである。生殖のための機能が備わっているから生殖をすべきだ、とは言えない。少なくとも人間のレベルにおいて機能を使うかどうかは自由である。

 

趣味のレベルとして何かを為して残す、これならありだ。残りの時間を稼ぐための活動をして、余った時間を趣味に投じる。現実的な解はこれである。

実際に私の日記や週報もそういう目的で書かれている。遺書兼暇つぶしである。

週報 2022/07/24 プログラミングと「読みやすさ」

祇園祭

近所の鉾が片づけられて日常が戻ってきたと安堵したら後祭が始まった。
相変わらず人が多くて歩きにくい。近年復活した後祭も観光客にバレ始めている。年々人が増えているような。

鉾をみて喜ぶのは2回くらいで満足した。今年は人ごみを避けてすごしている。

感染回避

月曜日に友人と会ったところ、濃厚接触者の濃厚接触者になりかけた。運良く友人が感染していなかったので無事である。

周りをみていると、思わぬ経路で感染する事例が増えているようだ。誰とも会ってはならない状況になってきている。

トマトは煮るだけでうまい

土井善晴アプリで、ただ煮るだけのトマトソースレシピが紹介されていた。
実際にやってみると、トマトを煮ただけでおいしさレベルの高いものができた。ニンニクもアンチョビも入れてないのにパスタとして成立する。

このトマトソースはパンに塗ってもいいしパスタとも合う。応用するとレシピが増えそうだ。

トマトは缶詰ではなく生のトマトを使う。工業製品は全部同じ味でつまらない。

礼服を買った

未だにリクルートスーツしか持っていない。借りればいいかな、と思っていたがよく考えると葬式は何回も行くことになる。買ったら5万円で済むが、借りると1回1万円である。買うことにした。

syntax比較の無意味さ

プログラミング言語をsyntax(文法)だけで比較するのは意味がない。プログラミング言語というソフトウェアはどんどんリッチになっていて、標準添付ライブラリが充実しVMコンパイラが複雑な機能を持つようになっている。

goroutineもsyntaxで比較する意味はない。goroutineの真価は、スケジューラがruntimeに実装され、いい感じに実スレッドに割りつけられるところにある。goプログラマから見るとほとんどOSである。実際に言語がOS化しているものは多いと思う。

ワンピースの読みにくさ

このところワンピースを読んでいる。100巻付近をKindleで読み、最新に追いついたあと、無料公開中の40巻付近を読んでいる。比べてみると最新話の読みにくさ、漫画としてのコマ割りの悪さがよくわかった。

 

妻氏に分析してもらったら、コマ数が多く、顔のアップが少ないのが問題だとわかった。

ふつう漫画は没入させるために顔のアップを入れる。近年のワンピースには、それがなくてほとんどカメラが引いている。見開きで目を引くコマがない。

また、コマ数もかなり多い。多いと読みにくくなるし、ぱっと見て情報を読みとりづらくなる。減らしすぎるとブリーチになるけど。

 


いろいろ合理的理由はあるのだろうけど、尾田栄一郎はさっさとワンピースを畳みたいのかな、と思った。また、大御所すぎて編集が指摘できない側面もありそう。

プログラミングと「読みやすさ」

言語はただ計算機と人間のコミュニケーションをするだけでなく、人間から人間に実装内容を伝える機能も持つ。趣味の開発でも未来の自分へ伝える必要があるし、OSSはチーム開発である。実際のプログラミングでは「読みやすく」書くことが大事である。

だが「読みやすさ」の客観的基準はないようにみえる。指標を作るのも難しい。結局、主観評価を戦わせることになる。厄介なことに、人によって認知的な特性が異なり、認知特性が違うと「読みやすさ」が大きく変わる。例えばワーキングメモリの大きな人は複雑なコードでも読めてしまうだろう。また、認知特性以外に熟練度にも影響される。

所与の条件として認知特性と経験がある。この条件は人間の脳の特性、あるいは状態である。あるプログラマの脳の状態にうまくハマるプログラミング言語があり、それが「読みやすい」と言われているにすぎない。「読みやすさ」は個々人の脳状態に依存するため、「読みやすさ」の比較は不可能である。こうしてプログラミング言語の比較は神学論争になる。永久に結論は出ない。

 

現実的な解は、誰にでも読みやすいように書くこと、である。認知資源も経験も乏しい人でも読めるように書く。下に合わせたら万人に読めるものができる。狭量なベテランはこれを嫌うが、チーム開発の投資としてはこの方向が安全確実である。

認知資源がない人でも読めるシンプルさを導入しつつ、複雑な言語機能を導入するのは難しい。ここが言語設計者の腕の見せどころであろう。この問題を解決するにはアイデアが必要だ。しかも、計算機科学の内部の問題ではなく、人間にとっての読みやすさはどんな性質を持つか?という、認知心理学的な問いでもある*1。計算機にしか興味のない人にはおもしろくないかもしれないが、私はこれこそがプログラミング言語のおもしろさだと思う。

*1:matzはこの問題に真剣に取り組んでいる

週報 2022/07/17 偶然性のおもしろさ

雑記

投票の日

いつも候補者の名前を覚えられなくて困る。候補者一覧が掲示されていても、どれだったかわからなくなる。ワーキングメモリが少なすぎるのだ。同僚の名前もよく忘れるのだから無理もない。

 

政治家は名前が大事である。市民に覚えてもらわねばならない。耳に残りやすい名前は勝率が高いだろう。たぶん政治家の家系は選挙を意識して名前をつけている。
赤松健もいい名前をしている。彼はもとから政治家っぽい名前をしていたのだ。

投票に行って外食、ではなくスーパーで食材を買って帰った。食糧は日曜日と水曜日に買い込むことが多い。

関西人の喋りやすさ

関西人、特に大阪人との会話はリズムゲームである。卓球のラリーと言ってもよい。
なんでもいいから素早くレスを返すのが大事だ。考えすぎたら返せなくなるので、率直に思ったことを言えばよい。

先日おしゃべりイベントを複数こなしてそう思った。関西人は喋りやすい。
どこに球を打ってもラリーが続くように返ってくる。関西ネイティブの人の返しのうまさに甘えてはいるが、関西人ファームウェアが無意識にやっているところもあるだろう。

ZoomやDiscordだとリズムゲームはうまくいかない。音ゲームで遅延が致命的なように、リモートだと会話のリズムが保ちにくくなる。

大阪府出身の妻氏は「大阪人の会話は光速を超えるんや!リモートでは遅い!」と言っていた。意味がわからない。詭弁である。

適度に遠慮しない

おしゃべりイベントの反省として「自分は業務で遠慮しすぎでは?」という疑問が出てきた。
リモートだから、という言い訳も考えたがたぶん元からだ。

チームでの開発において遠慮は適度に省いたほうがいい。遠慮をすると情報が出てこなくなる。「アウトプットは多いほどよくて、インプットは各自のフィルタでなんとかする」のがインターネットの原則だ。チャットなどを使うチーム開発にも適用できる話。

とはいえ同僚にも遠慮しがちな人は多い。会社の採用傾向がそうなのかもしれない。

 

SNSの治安悪化も影響してるのではないか。SNSではしばしば通り魔が出るので、SNSに触れていると発言が抑制的になってしまう。職場に通り魔は出ないのだが、デフォルトの態度が遠慮しがちになっているかも。

職場にもいるのはレスバ・マウントをし始める人だろうか。性差関係なくこういう人はいる。20代ならこうなるのも仕方がないと思うのだが、30をすぎてもマウント会話をしたがる人はどうしようもない。

アンチョビの使いどころ

オリーブオイルでニンニクを抽出する工程でアンチョビを潰しておく。出汁になってパスタ全体がうまくなる。

珍しくアニメをみている

動画は苦手だ。ほとんど見ないのだが、上司にリコリス・リコイルを勧められてみている。
たしかに人に勧めるに値する出来だと思った。よく練られている感じがする。キャラもよい。

 

そういえば私はガールミーツガール、バディものには弱いのだった。
同様のアニメとしてフリップフラッパーズがある。一目見てBlu-rayを買いそろえてしまった。まだ手許にある。

Amazon.co.jp: フリップフラッパーズを観る | Prime Video

読書はいい姿勢でやるものではない

読書はだらけた姿勢がよいのに気づいた。
ソファでもダイニングチェアでも、仕事用のオフィスチェアでもない。読書には読書のための椅子がある。

できればそういう椅子を買いたいのだが、我が家にはもう空間がない。無印の人をダメにするクッションで誤魔化すことにした。動かせるので便利。邪魔だけど。

クッションでダメな姿勢をとりながらの読書は捗る。
完全に寝ていてはダメ。ベッドではいけない。30度から60度くらいの角度がいい。

読書環境

偶然性のおもしろさ

アニメを見ていたら庵野監督の「アニメには制作者の描こうと思ったものしか出てこない」という指摘を思い出した。

制作者の意図を超えるために庵野監督はPreVisをやっている。シン・エヴァでは、物理的な役者にアニメの台本を演じてもらい、それを自由にカメラで撮っていた。物理世界でシミュレーションをしているので、思ってもみない絵が出てくる。

思ってもみない表現はおもしろい。意図せぬ表現には無意識によるものと偶然によるものがあるが、偶然性がいちばんおもしろい。

例えば突然岩が割れるとか。京都の街角で友人と喋っていて、ヒートアップしたところでいけず岩が割れたらめちゃくちゃおもしろいと思う。しばらくネタにして知人に語りまくるだろう。

石でも雨でも雷でもよい。でも、散歩中に熊が出てきたら困る。人が怪我しない範囲でなら、偶然的なイベントはおもしろい。雷が落ちてきて助かったというエピソードは境界例だ。生き残れば笑い話である。

 

物語は偶然性を利用する。作者は偶然を装って登場人物を殺す。偶然性に理由がないとただの理不尽になり納得しがたいので、作者は言い訳として伏線を提供する。伏線には因果関係としておかしなものもある。ただの言い訳だからそれでいいのだ。

死亡フラグをまじめに分析すると、「帰ってきたら……」という発言と事故のあいだに必然性がないことがわかる。「帰ってきたら……」と言ったから死んだのではない、ただ偶然死んだのである。

偶然なできごとには脈絡がない。脈絡がないからこそ、物語を進められるのだ。作者は偶然的なイベントを組み合わせて物語を作る。

偶然性の使い方に作者の力量が出るのだろう。視聴者の感情を適切に揺さぶりつつ、納得のできる偶然イベントを仕込む。これが上手なエンターテインメントである。

庵野監督の場合はさらに上を目指している。作者も意図していなかったものを撮りたい。本物の偶然性だ。意図せずいい絵が出てくるかどうかすらわからない。サイコロを振るようなものである。でも、それでおもしろいものが出てくるならばいいのだろう。

週報 2022/07/10

雑記

ちょっと時間がない感じがする

余暇は妻氏の漫画のアシスタント作業をしていた。あとはサイゼリヤ問題について書いたり。

manga-no.com

 

seiga.nicovideo.jp

ふだんから日記で使う時間は多い。考えて書くのが趣味なのでいいのだが、1日1時間以上書いてるような……。でもこれは減らせない。

となると、やはりSNSの時間がいちばん無駄。誰もが通る結論である。特に今週は騒動も多かった。私はダメージを受けることはないのだが、時間が足りないのでやめておきたい。

疲れているのに気づいた

調子がいいからといって鍼を1ヶ月開けていたのだが、限界だったのかも。疲れの管理ができていない。

頭脳労働の疲れは運動をしないととれない。散歩とストレッチをすることにした。なかなか散歩の時間はとれないのだが、けっこうヤバい体調になるので死活問題である。在宅勤務は不健康だ。

買った。

塩蔵物から塩をだすとうまくなる

youtu.be

この動画でそう言っていた。たしかに塩蔵物はうまい。塩蔵物とは漬物、アンチョビ、ベーコンなど。

野菜を塩漬けにするとたいてい発酵しておいしくなるし、肉はそれ自体がうまい。

パスタにはアンチョビとベーコン、チーズを入れて、純粋な塩は少しだけ。塩加減がわからなければ味見をしつつ最後の塩で調整する。

炒飯にいれるチャーシューも塩蔵物といえるだろう。味噌もそれ自体が塩蔵物。

たしかにオイルサーディンでおいしくできた

サイゼリヤ問題の分析

non117.hatenablog.com

疎外の問題は当然あるのだが、記号化の解釈が難しかった。他人の解釈をあらかた眺めると、記号化のグロテスクさ、記号化で情報が落ちるという解釈が多かった。間違ってはないが、「情報が落ちる」と言うだけでは曖昧さがある。

最初は自分もその程度の認識だったが、高村先生のツイートを足がかりに、書きながら分析したら「情報を食べている」という観点が出てきた。自分でもびっくり。でも、これには自分でも納得できた。カントっぽく「物自体」を食べているのではない、とも言える。

 

サイゼリヤは庶民にとって大事な店になっているため、デートで使うには云々みたいなマウントをされてしまう。おそらく中流意識の象徴みたくなっているのだと思う。

しかし、サイゼリヤはどこにでもあるわけではない。サイゼリヤを利用できる人たちはごく一部であり、その庶民性は全国的には上流階級かもしれない。

 

それにしても、サイゼリヤの愚痴だけであそこまで人々が怒るとは……。人々は「私を怒らせたから謝れ」あるいは「炎上しているということはお前が間違っている、認めろ」と言っていた。たしかに全体主義的である。

私にとって哲学とはなにか

哲学の定義は人によって違うところがある。問いを立てること、批判的思考が本質だ、と言う人もいるのだが、私にとっては違う。

問いを立てること、批判的思考は自然科学でも使うからだ。なんならソフトウェアエンジニアリングでも必須の思考方法だ。哲学に固有のものとは言いがたい。

哲学があらゆる学に浸透している、哲学はすべての学の基礎だと言うなら間違ってはいない。ギリシア時代以降、哲学から諸学が派生している。

 

私にとって哲学で大事なのは人間について考えることである。いわゆる心の哲学。心理学や言語学社会学脳科学、あらゆる人間に関する学を総動員して人間について考える学である。

人間一般のうちいちばん大事なのは自分自身である。自分自身および人間一般について考えるのだ。自己分析という、極めて個人的な探求を哲学と言っているところもある。

とはいえ、人生においてこれほど大事なこともない。私の目は直接自分を観ることはできないし、身体と思考のほとんどは無意識さんが勝手に動かしている。癖は自覚できない。

人間という構造、この精神の構造は所与である。これを詳しく調べないでどうやってよく生きるというのだろうか。

DG01問題

千葉雅也氏がサイゼリヤの「DG01と紙に書いて店員に渡す」注文方法を嘆いたら、多くの人が反発し、大論争になった。

千葉氏の愚痴の背景にある問題が哲学的におもしろい気がしたので、自分なりに整理してみる。

なぜこんなにも怒られているのか

サイゼリヤに対する愚痴の内容よりも、千葉氏の態度に怒っている人が多いと思う。なんか偉そうだから。

喧嘩は態度で起きる

私が妻と喧嘩をするといつも「あなたの態度が悪い」「その態度を引き起こしたのはあなたの態度である」という会話に終着する*1
ムカつく態度をみて、こちらもムカつき、こちらの態度をみた相手がさらにムカつき、というループができる。

態度が気に入らないと、ロジックを使って相手の不正を暴こうとするが、言いたいことは「あなたの態度が悪い」「あの態度が気に入らなかった」である。人間は、感情を合理化するために詭弁を弄するのだ。

態度とは、人間の動物的な部分である。非言語で伝わり無意識に働きかける情報。どんなに理性的なつもりでも、非言語情報でひとは動揺する。

千葉氏はTwitterで「偉そう」にしている

千葉氏の「偉そう」な態度は昔から一貫していて、私も「説教くさいな」と思ったことはある。素なのか演技が入っているのかはわからない。おそらく「わざと」やってるところもある。

千葉氏は対談で紳士的にふるまうし「勉強の哲学」や「現代思想入門」は、読者の読みやすさへの気遣いに溢れている。読みやすくなるようサービスをしているから本がよく売れているのだ。

なのに、Twitterでは「偉そう」にしている。Twitterは彼の「哲学的日記」でもあるらしい。エッセイにカテゴライズするのが適切だろう。彼の小説・エッセイにも「偉そう」「気取った」モードが見られるので、Twitterの文体が「偉そう」にしてあるのだろう。

 

千葉氏のTwitterモードの態度に煽られて冷静でいられなくなる人はブロック・ミュートをしたほうがいい。あなたにはその自由がある。

あるいは、炎上したネタをリツイートしまくる人をミュートするのもありだ。あなたのタイムラインに不快になるツイートを流しているのは、リツイートしまくっている人である。

7万人もフォロワーがいて、愚痴を言うのが問題なのではない。Twitterリツイート機能が根本的な問題である。

何を言っているのかわからない怖さ

愚痴なのはわかるが、何を言っているのかわからない、と思った人も多いだろう。わからなくて「もやもや」する、不安になる、という心情も理解はできる。「何事もわかりやすく説明せよ」という時代である。

彼のTwitterは哲学的日記帳でもあるので、わかりにくいのも仕方がない。「フォロワーが多い教授さまはわかりやすく説明すべきだ!」というのもナンセンスである。

 

さて、では何を言っていたのだろうか?ここからが本題である。以下に書くのは私の解釈であり、客観的な「真実」ではない。

私の解釈を読んでも納得できない場合は自分で考えてほしい。わからなさにケリをつけるのは本人の納得の問題である。各人がどこまで粘るかにかかっている。

「料理の名前をなくすと食事体験を味気なくなる」問題

このツイートの説明がわかりやすい。


言葉は記号と意味でできている。記号が対象=料理そのものを示せていたら、記号は何でもいいのだろうか?

たしかに記号化で意味は失われている

例えば、「DG01」はミラノ風ドリアなのだが、「ミラノ」「風」「ドリア」という語の連なりが与えるイメージは「DG01」では失われている。「DG01」と聴いただけでミラノ風ドリアと同じイメージは想起できない。

ミラノはイタリアの地名で固有名詞だし、ドリアは料理のカテゴリーである。どの語も連綿と受け継がれてきた意味があり、ミラノにはミラノのイメージ、ドリアにはドリアのイメージがある。

 

われわれは「DG01」以前からサイゼリヤを利用しているので、「DG01」=ミラノ風ドリアという変換ができる。だからサイゼリヤの常連にとって、ミラノ風ドリアのイメージが劇的に失われているわけではない。

しかし、今後初めてサイゼリヤを利用する人はメニューの名前を覚えるだろうか? 
発音しなくても注文できるし、紙に「DG01」と書けば料理が出てくるのだ。覚えない、名前を認識しないまま食べる人も出てくるだろう。「DG01」以降の世代にとって、目の前のドリアはミラノ風ドリアではなく「なんかおいしい食べもの」「あれ」になる*2

料理に付随する情報を食べている

w.atwiki.jp

ラーメン発見伝という漫画に「ラーメンではなく情報を食べている」という台詞がある。情報とは言葉と結びつく脳内のイメージのことである。漫画の内容に即して言うと、鮎の煮干しを使った「淡口らあめん」に付随する繊細な味のイメージ。

この漫画で芹沢さんは「ラードをたくさん入れているのに、バカな客たちは鮎の風味が残っていると言っている」と批判する。こうして「ラーメンではなく情報を食べている」につながる。

 

実際にわれわれは料理だけではなく情報を食べている。

例えば京野菜聖護院大根という京都特産の大根があるのだが、見た目はただの大根である。切って煮付けにされたらプロ以外区別できないだろう。京野菜聖護院大根ですよ、というラベルをつけられ、京野菜のブランドイメージが伴ってはじめて価値が生じるのだ。われわれは明らかに情報を消費している。

食品業界は名前に凝っている

コンビニ各社も料理の名前を大事にしている。例えばセブンイレブンの「お出汁の効いたきつねうどん」や「完熟トマトソースと牛肉の旨味のミートパスタ」。

20年前ならただの「きつねうどん」「ミートソースパスタ」だった名前が、なぜか過剰な説明がついている。こうすると売れるのだろう。コンビニの商品名はどんどん説明的になっている。

 

個人的には嫌いな風潮である。説明的な名前には品がない。私は自分で「きつねうどん」をイメージしたい。厚かましい説明はいらない。こうした命名は、私が自由にイメージするのを邪魔している。

もしかすると、人々はイメージした味と実際の味が違うことが怖いのかもしれない。失敗をしたくない、なにがなんでもリスクを避けたい、という人が多くなっている。料理という商品を買うのに失敗したくないのである。

 

サイゼリヤもイタリア文化を印象づけるために「ミラノ風」をつけている。「DG01」だけ覚えておけばよいとなったとき、せっかく投資してきたブランドイメージは失われる。

料理の名前をなくすことは食事体験を損ねる

料理の名前が大事なのだから、名前をしゃべって伝える体験も大事である。引用したツイートにもあるように、発話に食事という快楽への期待が込められる。

ミラノ風ドリアを「DG01」にする施策、発話させないことは、食べる人がイメージする余地を奪っている。しかも皮肉なことに、サイゼリヤの料理が魅力的であるほど食事体験が損なわれるのだ。

食事体験の質として名前や発話を問題にするかどうかは個人の価値観ではあるが、質が落ちていることは事実である。なので、体験が悪くなったことについて愚痴を言うのも自然であろう。

言語が消滅する前に

コンビニの商品名からもわかるように、言葉は過剰装飾になり、われわれがイメージをする余地は減ってきている。サイゼリヤでは「ミラノ風ドリア」と発話し、食事の予感を楽しむことができなくなっている。

言葉の意味、言葉が与えるイメージは希薄化しており、特にSNSで顕著だ。SNSで気軽に罵倒する人たちは、言葉が与える意味を理解していない。この問題を千葉氏は昔から批判しており、「言語が消滅する前に」という本も著している。

以上のような背景があのツイートから読みとれないのも無理はない。私もこのテキストを書いているうちに理解したところがある。それほどまでに言語とは複雑で不思議なものなのだ。

 

 

資本主義を知らぬ無垢なスナネズミちゃん

「店員をどれくらい人間扱いするか」問題

こちらはよくある話で、大企業システムに組み込まれた店員をどれくらい人間扱いするか、という問題だ。飲食店だけでなく、コンビニやUberEatsなどにも適用できる。

この問題は100年以上の歴史があり、産業革命以降ずっと問題になっている。人間を道具と見做すな、替えの効く歯車になりたくない、というやつだ。現代的な例としては「アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した」という本もある。

現代でも「クリエイティブ」な職、あるいはフリーランスになりたがる人は多い。今でも「社会の歯車」を毛嫌いする風潮はある。

システムのなかの労働者

企業が労働者を搾取するだけでなく、消費者も店員に対してきつくあたることがある。店員に暴力をふるったり、高圧的にふるまう人はよくいるだろう。

注文をとって料理を運んできてくれるフロアスタッフは、サイゼリヤというシステムの「部品」とみなせる。ぶっきらぼうに接して命令口調で注文し、「おそろいでしょうか」を無視することもできる。

たいていの人はそれなりに礼儀をもって接すると思う。しかし、彼ら店員がシステムの一部である限り、彼らが人間扱いされない可能性は残るのだ。

 

もし個人のお店ならば、より対等な取引ができる。「あなたは客ではないので出ていってくれ」と店主の判断で追い出すことができる。

しかし、雇われた労働者に追い出す権利があるかどうか、微妙である。サイゼリヤという店は店長の所有物ではなく、企業の所有物である。この権限の差異をついて、増長する消費者はいるのである。

人間扱いのレベル

ところで人間扱いってなんだろうか。一口に人間扱いといっても、ゼロイチではなくグラデーションがあると思われる。例えばこんな感じ。

  • Tier 1 親しい人間としての扱い、家族や友人
  • Tier 2 仕事上の付き合いとしてそれなりに尊重する扱い、同僚や取引先
  • Tier 3 どうでもいい人、見知らぬ人、通行人
  • Tier 4 敵、人権を認めない、無視する。差別はここの問題

目の前の人間をどのレベルで扱うのか、自明な解はない。文化によっても違う。

例えばフランスや大阪だと公園や電車内で知らない人と喋ることがある。知らない人をTier 2に近い扱いをする。

 

店員がいちばん揺らぐところで、多くの人はTier 3に入れるだろう。システムの一部として、コミュニケーションをする必要のない相手。「店員に認知されたから常連をやめる」という話も聞く。自分が店員にとってTier 3でなければ耐えられない人もいるようだ。

私は信念をもって店員をTier 2に入れる。その場限りだとしても取引をしている働いてもらっているから。ただ、疲れているとTier 3になることもある。疲れ具合とか、精神的な余裕で扱いは変わってくるのは仕方がない。

横柄な客は店員をTier 4に入れている。暴力をふるってもよいと判断するとき、ひとは相手を人間扱いしていない。

サイゼリヤの今の注文方法でも、紙を渡しつつTier 2の対応をすることは可能だ。とはいえ、Tier 3ないしTier 4の扱いに転落しやすくはなるだろう。よりシステムらしくなっており、たしかにこの点で批判は可能である。

まとめ

千葉氏の愚痴の背景を分析したら「言語の意味の希薄化」「疎外の深刻化」が浮かびあがってきた。今回、千葉氏は直接的にこの問題を主張したわけではないが、前者は著書でたびたび取りあげている問題だし、後者は誰でも知っている問題だ。

多くの人はただサイゼリヤは善であるという規範を内面化し、千葉氏の愚痴、および態度に反発しただけであろう。上記の内容に興味がある人が少ないことは承知している。

もし、これらの問題に興味があるならば本を読むことを勧める。Twitterが言論の場で云々と言う人はいるが、SNSはただの情報伝達の道具である。あそこで有意義な議論ができないことはここ数年の炎上騒動でも明らかだろう。本を読みましょう。

2023/12追記

「本来は店が負担する労働=注文管理を客に押しつけるのはサービスの劣化である」という論点もある。

「人が足りないのだから仕方ないだろう」と言う人もあるが、以前はしなくてよかった労働を押しつけられているのだから「サービスが劣化した」と主張するのは正当である。

サイゼリヤが紙に書かせているのはまだマシなほうで、使いにくい不出来なアプリに入力させる店もある。労働の押しつけをするにしても、もっとマシなやり方がある、という話にもできるだろう。

*1:さいきんは年に1回くらいです

*2:実際に知人の子が記号で認識している事例を聞いた